花瓶のなかでうつろぐまどろみ 暇ができたので久しぶりになまえのアトリエへ行ってみると、壁一面に大きくてカラフルな絵が飾ってあった。俺はその絵を横目に大きいとも小さいとも言えない声でなまえのことを呼ぶと、しばらくしたあと部屋の奥の方からひょっこりなまえが現れてきた。 「わあ悠太くん、久しぶりだねえ。どうしたの?」 ふわふわした髪の毛をゆるく束ねたなまえはすこしだけ驚いた素振りを見せたあと俺に近づいてきた。昔から変わっていないほわほわした足取りで、すとんとイスに座ったなまえからは、ほのかに絵の具の香りがしてきた。 「さあ、どうしたんだろうねえ。」 俺はまるでなにかをごまかすかのようにそう言ったあと何気なくテーブルの上にケーキの入った箱を置いた。するとそれを見た瞬間、なまえは顔をほころばせ、ガラス玉のような目をキラキラさせて俺を見つめてきた。 「あ、ゆ…悠太くん、これはもしや…!」 「そうです。久しく食べていないなあと思ったからなまえのだいすきなティラミスを買ってきました〜。」 「うわーい!悠太くんやさしい!だいすき!」 無邪気ななまえは大きな声でそう言ったあと、上機嫌にぴょんぴょんとはねだした。そしてそのあと突然「よし!じゃあ、きりもいいところだったし悠太くん、いっしょにお茶しよ!」と歌うように言った。 〇 なまえはティーカップに普通の紅茶よりも数段甘そうなミルクティーを注いだあと、棚から小花柄のお皿を二枚出してきた。俺たちはそのお皿の上にに箱の中から取り出したティラミスをのせて、二人いっしょに「いただきます」と言った。なまえはティラミスを一口運んだ瞬間、とろんと目尻を下げ、いかにも幸せそうな顔をした。 「おいしいねえ」 「そうだね」 「うふふ、わたしいますごくしあわせだあ」 なまえはそう嬉しそうに呟いたあともなお、ティラミスをぱくぱくと食べ続けて、瞬く間にお皿の中をからっぽにした。 「…あ、そうだなまえ、そういえば聞きたいことがあったんだけどさ。」 「なあに?」 「あの壁に飾ってあった絵ってもしかして新作のもの?」 「うん、そうだよ。今度のやる個展に出す予定なんだ〜。」 「ふーん」 俺は残りのティラミスをたべながらなまえのことばに相槌を打った。そしてそのあと「やっぱりあの絵は新たらしく描いたものだったんだ」とぼんやり考えた。 「あのね悠太くん、」 「ん?」 「じつはこの絵にはね、こっそり悠太くんのことを考えながら描いたところがあるんだよ!」 「へえそうなんだ。それどこなの?」 「ここ!」 明るい声を出しながらなまえは斜め上の方の、ただ色が混ぜられていたところを指さした。 「……」 「俺を考えながら描いた」と言ったわりには俺を現す具体的なものは一つも描かれていなかった。というか、なまえが描いたその絵には端っこに汽車っぽいものがぽつんと描いてあるだけであとはたくさんの色がほわほわと混ぜられているだけの抽象画だった。 「どう?うまく描けてると思う?」 「うーん…、とりあえずなまえは相変わらずの芸術肌だったってことはわかったよ。」 俺は呆れながら、でも少しだけ笑ってそう言った。「俺を考えながら描いた」と言ったところの色づかいが、まるで光をイメージしたようなもので、他のところよりも目を引いたからだ。 「あはは、そっかあ。」 「うん、でも俺はこの絵好きだよ。」 なんだかなまえの心の中を見ているみたいで、暖かい気持ちになるからね。 シロップガーデンの春 |