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 ビスケット島に移り住んでから一ヶ月が経過した。結婚式から怒涛の日々であったが、やっと身の回りの整理が付いてきて、余裕も出来るようになった。てっきり別宅へ住まわされ、通い妻のようになるかと思えば彼は当たり前のように一緒に住む家へと案内した。案内されたその家は絵本の中に出てくるような可愛らしいお菓子のお家だった。ビスケットが基礎となったお家はまるで夢のようで目を輝かせてしまう。家の中はクラッカー様のサイズで作られていたが私の部屋やキッチンは私の身長に合わせた作りになっていて、生活するのにも苦はなさそうだった。

「食事は基本ホーミーズが作る。お前は何もしなくていい」
「はい。わかりました」
「必要なものがあれば伝えろ。おれの部屋は勝手に入るなよ。用がある時はこれを使え」

 渡されたのは小型の電電虫であった。それから簡単な家の間取りを教えて貰うと彼は仕事へと行ってしまうようだった。お夕食は一緒に食べられますか?と尋ねたが、彼は一瞬間を開け「遅くなる」。とだけ告げ、家から出て行ってしまった。

「私ちゃんと奥さん出来るのかしら……」

 そんな不安を呟いてしまう。しかし、後ろ向きでは良くなるものも悪くなってしまうものだ。私は気合いを入れるために両頬をパチンと叩き気合いを入れる。まずは生家からもってきた自分の身の回りのものを自室へと仕舞うことにした。
 多忙な彼と出会えるのは朝くらいなものだ。夜遅くまで帰ってこない夫を待った方がいいかと尋ねたのは同棲してから三日目のことだ。しかし彼は素っ気なく「別にいい」。とだけ述べて仕事へと行ってしまう。そんなに仕事をして体は大丈夫なのかと心配になり既に話し相手として打ち解けたホーミーズにそれを零せばけらけらと「心配しすぎ〜」と笑われてしまった。

「でもそんなに心配ならクラッカー様の好物でも用意してあげたら?」
「そういえば私、クラッカー様のことなにも知らないわ……。クラッカー様は何がお好きなのかしら」
「クラッカー様はビスケットが大好きなのさ!このお家を見ればわかるだろ〜?」

 ホーミーズの言葉に家の中を見渡す。本物のお菓子で作られた可愛いお家。ビスケットで作られたテーブルにクローゼット。アイスボックスの柄からジャムが練られた美味しそうなビスケット達。そう言われればクラッカー様の姿もビスケットみたいね……、と思いを馳せて私は閃いた。小さい頃大好きだったお菓子作りをここで活かさない手はないと。

「ねえ、お願いがあるの。聞いてくれる?」

 ホーミーズに欲しい物を告げれば彼らは二つ返事で了承してくれた。


 パントリーに保存されていた材料を使ってビスケットを作る。久しぶりに作るのでとりあえずは試作品だ。昔何度も作ったレシピなので分量は暗記している。これが上手く作れたなら別のレシピ本を見て新しいものに挑戦するのも良いのかも知れない。卵とバターを入れさっくりと混ぜていく。そこにふるいに掛けた小麦粉を混ぜ入れ一つに纏めていく。寝かせた生地を麺棒で伸ばしてホーミーズに用意してもらった型抜きを使いオーブンで焼けば、小さい頃夜に部屋を抜け出してよく作っていたあの頃の記憶が蘇る。オーブンから漂ういい香りにホーミーズも嬉しそうに何かを歌っていた。
 焼き上がったビスケットをそわそわとしながら冷ます。我慢出来ずに齧れば熱さと懐かしさで目尻に涙が浮かんできてしまうほどだった。
試作品にしてはよく出来た方ではないかと思うが、クラッカー様に渡すには不十分な気がする。半分を自分で食べるように取っておき、半分はホーミーズ達へと分け与えた。

「このことはクラッカー様には内緒にしてね?」

 せめて美味しいビスケットを差し上げたいという小さな見栄であった。


 それから何度か試作を重ねて漸く満足するビスケットが焼き上がった。可愛らしいラッピングをしてその日の夜はそわそわして寝れそうになかった。帰ってきたらホーミーズに起こして貰おうとしていたが結局眠れないままクラッカー様が帰ってきて私はいそいそと身支度を整えて彼を出迎えることにした。蜜月とは程遠いこの関係に何かしらのきっかけが欲しかったのだ。

「お帰りなさいませ」
「……起きていたのか」
「はい。遅くまでお疲れ様です」

 彼は驚いたように私を見下ろしていた。私は後ろ手に隠していたビスケットの入った袋を差し出した。

「クラッカー様がビスケットがお好きだと聞いて焼いてみました。よかったら召し上がってください」

 不要でしたら捨てて下さって構いません、とビスケットを押し付け、おやすみなさいと言い逃げのように踵を返してしまった。反応が気にならないわけでもなかったが、怖かったのだ。愛のない政略結婚の相手から貰っても困るのではないかと今更ながらの考えが頭を占める。疎ましいと思われてしまっただろうか。布団に篭りながらそんなことばかり頭の中で蠢いている。彼と一緒のベッドで寝たのが結婚式の夜だけなのも一因だ。私ではやはり駄目なのだろうか。鬱々とした気分のまま私はその夜を過ごした。


 翌朝、珍しく寝坊してしまい起きたらクラッカー様は既にいなかった。ああ、やってしまったと自己嫌悪に陥っているとテーブルにメモ書きが残されていた。綺麗な字でそこに記されていたのはレシピのようで材料と分量だけが書かれている。

「ビスケットのレシピ?」

 キッチンに立ちメモ通りの分量でいつものようにビスケットを作っていく。焼き上がりを食べれば味の違いは一目瞭然だった。ほんの僅かな分量の差がここまで味の違いに出るとは、と感心しながらもこのメモを残した人物に想いを馳せる。クラッカー様でしかあり得ないのにどこか信じられなない自分がいた。けれど、その小さなメモ用紙に胸がいっぱいになる。愛を綴った言の葉に胸を打たれた少女の話を思い出した。きっとあの本の中の少女の気持ちは今の私と同じに違いない。そのメモをぎゅっと胸に当てる。ただのレシピが私にとってはなによりの愛の言葉に思えた。
 それからクラッカー様との奇妙なやり取りは続いた。書いたメモ通りにビスケットを焼きテーブルの上に手紙と一緒に置いておいた。直接渡せなかったのはどんな顔をして見ればいいのか分からなかったからだ。渡した次の日に必ず返事代わりにメモが置いてあり、それは改善点だったり賛辞の言葉だったりと多様な言葉が書かれていた。美味しいと褒められた時にはそのレシピばかり作っていたせいかメモに「ココア味」。とだけ記されていたこともあった。
その文字列が右肩上がりでなんとなく可愛らしく思えて笑ってしまったのは記憶に新しい。奇妙なやり取りを始めた日から顔を合わせることが出来たのは片手で数えられる程度だった。ホーミーズに聞けば夜遅くに帰って早朝に仕事に行ってしまうらしい。意図的に顔を合わせることがないのか、とも疑問に抱いたがそれでも同じ家に帰ってきてくれることがとても嬉しく感じた。 4将星という肩書きがあるのだから島内外でもやることがたくさんなのだろう。家でも中々会うことが出来ずにすれ違いの生活を続けている。寂しさが全くないと言えば嘘になるが、彼が私の焼いたビスケットを食べてくれている、というその事実だけで胸が温かくなる。そんな激務の中で彼は疲れていないかと、お節介にも自国でよく作っていたフルーツティーを用意してしまった。余計なお世話ではと危惧をしたが、ついビスケットと共に置いてしまった。少しでも彼の心に留めてほしい、なんて浅ましい期待を抱いてしまった自身が恥ずかしい。その夜は中々寝付けなかった。次の日、早起きしてリビングへと向かったがクラッカー様は既に仕事へと行ってしまうところだった。慌てて挨拶と見送りをしようとすれば、彼は短い返事だけをして行ってしまった。やはり、迷惑で余計なお世話だったのかも知れない。気落ちした気分のままキッチンへ向かうとティーポットが綺麗に洗われていた。

「奥方様〜、これクラッカー様からだよ〜」

 ホーミーズに声を掛けられ、缶を渡される。これは私の都合の良い解釈をしてもいいのだろうか。紅茶の缶を胸に抱き締めながら私はしばらくそこに立ち尽くしていた。少しでも私という存在が害ではないと思って貰えてるのではないか。そんな希望すら抱いてしまう。ほぼ家の中で生活していた私だが、時折噂話を耳にすることもある。何番目かの息子に嫁いだ花嫁は仇討ち目的、だとか。大きな海賊団でこれだけの島を統治しているともなるとそういった話題は事欠かないのだろう。だからこそ、私はただ彼に認めて欲しかった。私がクラッカー様を害する存在でないということを。しかし、そんな打算的な考えを打ち消すほどの衝撃だった。私が作ったものが彼の口に入るのならば、それはとてもこの上なく幸福なことだった。
 ビスケットとフルーツティーを作るのが日課になり飾り切りの腕を磨いてたり、と彼のことを考えるだけで胸が幸せになる。恋とはこんな気持ちなのだろうか。そんなことを思いながらもちくりと胸を刺す痛みに見ないふりをする。結婚してから数ヶ月経つが彼と顔を合わした数はうんと少ない。そして、夜に彼が私の元に訪れることは一度もなかった。世継ぎを作ることすら拒否されるのならば、私の存在価値は一体なんなのだろうか。私の国の領地を獲るだけの程のいい花嫁。そんなことはとっくに理解していたがどこかで寵愛を賜われるのではないかと、そんな期待をしてしまっていた自身を酷く恥じた。

「……けれど、要らないと言われる、その日までは」

 せめて、形式だけの妻だとしても立派な妻でいなければ。


 そして今日もまたビスケットを焼いて準備をしていればドアの開く音が聞こえた。こんなに早く帰ってくるのは珍しいとキッチンから出てダイニングへと赴けばそこには知らない男が立っていた。

「どなたでしょうか……?」
「おれだが」

 その声は確かにクラッカー様によく似ていたが、しかし姿が全く違う。背丈は私よりも大きかったが、クラッカー様に比べたら小さい。鋭い眼光と大きな顔の傷に恐怖を覚えたが、見知らぬ男を家に許すことは出来なかった。例え、形式上の妻だとしても家を守るの自身の役目だからだ。

「……声は似てても私は誤魔化されません。お引き取りを」

 震える体を誤魔化して強気にそう言い放つ。眼前にいる男の鍛え抜かれたその体と立ち姿に自分では立ち向かっても敵わないことはすぐにわかった。男として育てられた時に護身術や剣術の真似事などをしていたが、そんなもので誤魔化されてくれるほど目の前の男は弱くないことは私にでも理解できた。この男が何を目的にするかわからないが、相手が男で自身が女であるが故に自衛として考えられる手段は一つだけであった。一歩踏み出す男に隠し持っていたナイフを取り出す。男は一瞬歪に顔を歪ませた、自分に向けられるのかと思ったのだろう。しかし私はその切先を自身の首元に当てた。予想外の行動だったのか男の瞳が丸くなった。

「私、主人に貞操を誓っております。無体な真似をするのであればここで死にます」

 この身は既に夫である人物ひとに全て捧げている。頭から爪先まで余すことなく全てを。クラッカー様には私など必要ない塵芥と同じようなものかも知れないが、私の世界には彼しかいないのだ。勢い余ってナイフで切ってしまったのか、首筋がちくりと痛むが瑣末なことだ。眼前の男は小さく溜息を溢したかと思えば手をパンパンと合わせる。何を、と考える間もなく見知った主人の顔が現れて今度は私が目を丸くする番であった。

「クラッカーさま……?」
「だからおれだと言っただろうが」

 姿も声もいつも通りの姿で思わず腰が抜けてしまい、その場にへたり込んでしまう。その様子を彼は呆れたように笑うのだった。

「だって、その、お姿が……」
「ああ。お前には見せていなかったな。この姿が本来のおれの姿だ」

 そう言うと彼は見知ったそのビスケットの鎧を消して、私にしたら見慣れない本来の姿で近付く。そして、握っていたナイフを没収されてしまった。

「なんでこんなものを」
「……護身用で、昔からの癖なのです。それに、クラッカー様は有名人ですから、こんなこともあるのではないかと」
「おれの島に無法者が入ってくるとでも?」

 杞憂だと言わんばかりに言い捨てられ首筋に指先を当てられた。触れる指先が熱くてなんだか無性に恥ずかしくなった。

「自らを傷つけるか阿呆がいるとはな、血が出ている」
「ああ、どうりで少し痛いと……」
「全く。淑やかに見えるのは外見だけだな」

 褒められているのか貶されているのか。鎧姿の主人とは身長差でその表情を見つめることが出来たのは誓いのキス以来である。見慣れない本来の姿である彼の表情をまじまじと見つめる。顔の右側にある大きな傷跡を眺めながらつい、指先が伸びてしまった。彼は少し怪訝そうな表情をしたが私の指先を拒むことはなかった。触れた肌の温度は火傷しそうなほどに熱い。

「その……、傷跡は痛くはありませんか?」
「もう昔のものだ。痛むことはない」
「あの、なぜ鎧を纏っていたか尋ねても……?」
「その方が都合が良いからだ。素性を隠していた方が仕事もしやすいだろう」

 それに手配書に写っている姿も鎧姿だ。お前も見たことくらいあるだろう。と、確かに彼の手配書を見たことがあった。といっても結婚後にホーミーズに気紛れに見せられたものだ。その時にホーミーズから能力者だということは聞いてはいたがこんな能力だとは知らなかった。

「そう、ですか。あの、そんな大事なお姿をどうして私に?」
「おれのこの姿は家族にしか見せん」
「それってどういう……」

 察しが悪いと笑われてしまうだろうか。しかし、浅はかな期待を言葉にしてそれを裏切られたくないのだ。そしてそんなことを考えてしまう臆病者な自分が嫌になる。自分が特別だ、等と思い上がってその期待を打ち砕かれても気丈に振る舞えるほど、私の人間性は出来ていない。

「言葉にしないとわからないのか、それともそうおれに言われたいのか」

 低い声で吐息混じりに耳元で囁かれて体が震えた。

「政略結婚で、クラッカー様が私に何も思ってないとわかっています。けど、私の、居場所は、あなたしか、ないから……」

 気まぐれに書いたメモを後生大事に取っていると知ったら貴方は笑うでしょうか。部屋の片隅に置かれた箱の中に詰められたそれを頭の片隅で思い出す。

「なら、死ぬまでおれの傍にいろ」

 俯いていた耳元で甘美な言葉が響いた。驚いて視線を上げれば鋭い眼光が私を射抜く。しかしそれを恐ろしいとは思わなかった。

「お前の作るビスケットは悪くない。常に改善しようとする向上心も嫌いじゃない。それにどうでもいいやつの菓子を食うほどおれは優しくない」

 その言葉の意味を私の都合の良い解釈で受け取っていいのだろうか。私のことをほんの少しでも気に留めていてくれていると思ってもいいのだろうか。湧き上がる感情が涙となって瞳から溢れ落ちる。とめどなく溢れるそれをクラッカー様は少しだけ笑いながらその大きな指先で掬う。

「……一緒に住んで一月以上経ちましたが、一向に寵愛を賜われず、私はもう用無しかと思っておりました」
「……最初はお前のことなど、政略結婚の相手でしかないと思っていた」

 わかってはいたが、本人から直接告げられると心臓が鷲掴みにされたように痛む。しかし、クラッカー様は穏やかな表情で言葉を紡いだ。

「それにお前も噂には聞いただろう、他の兄弟達の結婚相手の行く末を」

 そう続けられた言葉と共に目尻の涙を大きな指で拭われながら噂好きのホーミーズが歌うように喋っていたのを思い出す。何番目かの兄弟が結婚したけれどそれは仇討ち目的だとか、ビッグマムの財宝を狙う不届き者だとか。血生臭いそんな話題はよく上がっていた。

「……ええ」

 そんな話題が上るのだからこの結婚もクラッカー様は本意ではなかったのだろう。だからせめて、私は何もしないと、クラッカー様の安寧だけを願っていると知って欲しくてビスケットを作った。クラッカー様を案じる気持ちと少しでも自身を知って貰いたい気持ちが混ざって出来上がったのがあのビスケットだ。心安らぐようにと願った筈なのに隠しきれない不純物が混ざってしまった。私を見て欲しいという浅ましい欲望だ。

「少しでも、クラッカー様に私を知って欲しかったのです。貴方に害はないものだと、知って欲しかった……」
「欲がない女だな、お前は」
「……いいえ。とても私は浅ましいのです。ほんの僅かでもクラッカー様に愛されたいと、願ってしまったのです」

 言い切れば沈黙が部屋を包んだ。ああ、言ってしまった。頭上から降り注ぐ鋭い視線に耐え切れず顔を俯きスカートをぎゅっと掴んだ。間近で見たクラッカー様の表情が脳裏に焼き付き心臓が鷲掴みにされたように全身が熱くなって握り締めた手が汗ばんだ。

「ナマエ」

 初めて彼に名前を呼ばれた瞬間だった。余りにも嬉しくて泣きそうになっていれば顎を持ち上げられ触れるだけの口付けをされた。結婚式の時とは違う、温かな唇。いきなりのことで頭がパンクしそうになる私の表情が面白かったのか彼は愉快そうに笑っていた。恥ずかしいのと嬉しい気持ちで困惑していたが彼は私の膝裏に手を入れて体を抱き起こした。

「不思議なものだな。どうでもいいと思っていた筈なのに、今はお前の一挙一動がこんなにもおれの心を掻き乱す」
「その、えっと……」

 急に高くなった視界に驚いて思わず彼の首に抱き付いてしまった。仄かに香るビスケットの甘い匂いと、彼の匂いが混じって頭がくらくらとしそうだ。
そんな私の様子を眺めながら彼はソファーへと私を下ろした。

「おれは存外お前のことを気に入ったようだ」
「それ、は、ありがとう、ございます」
「おれに愛されたいのだろう?」
「……過ぎた言葉でした。お忘れください」
「それは無理だ。言っただろう。お前は死ぬその時まで、おれの傍にいるのだから」

 お前は、死ぬその時までおれの愛を享受するといい。
 クラッカー様はそう囁くともう一度唇を重ねた。触れるだけの口付けとは違う、深くて甘くて苦しくて頭の中がクラクラしてしまう私の知らない口付けだった。熱い舌が口の中で合わさって呼吸を奪われるほどの深いそれに私は成されるがままで、ただクラッカー様の体に縋り付くことしか出来なかった。唇を解放されやっとの思いで呼吸しながらクラッカー様を見上げる。呆然とする思考の中で見た彼はとても艶やか表情を浮かべていた。

「今夜抱く。覚悟をしておけよ」

 告げられた言葉に身体の奥が熱く疼いた。自分ですら知らない一面を暴かれてしまう不安と期待とが入り混じって私を追い詰めていく。

「そ、その、優しくしてくださいね……?」

 縺れた舌が吐き出した言葉にクラッカー様は優しく私の背中を撫でた。その指先一つで齎される甘い痺れに思わず体は震えて吐息と共に声が漏れ出してしまう。しかしクラッカー様は慈愛に満ちた声音で囁くのだ。

「言ってなかったか? おれは痛いことは嫌いなんだよ」

 だからとびきり優しくしてやろう。そう言って笑う彼の表情は少し意地悪で、けれど世界で一番優しく見えたのであった。

20231018

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