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純潔なる狂気

原作二年前程の話。


 ママのお茶会に一人で参加するのにも慣れた頃、事件は起きてしまった。その日のママは招待客に齎された宝箱に上機嫌でとても浮かれていたようだった。いくつものテーブルがありナマエはママの近くのテーブルでお菓子を囲んでいて、ママの上機嫌さに気持ちも自然と楽になる。双子を妊娠し、つわりも落ち着いてきた為に今日のお茶会を楽しみにしていたのだ。ゆったりとしたドレスを選んできたので傍目ではわからないが、ほんの少し膨らんできたお腹を撫でる。甘いビスケットを口に運びながら、招待客の話に相槌を打ち紅茶の香りにうっとりとしていたときに突然隣から声を掛けられた。

「やあ麗しのお嬢さん。よかったらお話をしても?」
「ええ。構いませんよ」

 先程まで隣の席はご夫人だった気がするのだが、と思いつつも表面には出さず招待する側の顔を作る。十年以上シャーロット家の嫁をやってきた矜持がある。主人がいなくても卒なくこなす術は学んできたつもりだ。ナマエは一度見た人物を忘れることはない。そしてこの男の顔は見たことがないので初めて招待された客なのだろう。聞いてもいない自身の肩書きや身の上話を適度な相槌を打ちつつ、粗相のないように笑みを浮かべながら受け流す。色を含んだ値踏みするような視線に辟易としつつ決してそれを表には出さない。もしかして他の兄妹達の橋渡しをして欲しいのかしら、とも思ったがナマエにはそんな決定権はない。全てはママの望むが儘に、だ。培われた処世術で愛想良く会話を繰り返していた最中、突然男に手を取られた。

「君に一目惚れしてしまったんだ。よかったら僕と結婚してくれないだろうか」

 目が点になる、とはこういうことだろうか。ナマエは一瞬体を固まらせたがすぐに柔和な表情を作り困ったように眉根を寄せる。その表情が庇護欲を唆ることを知らないのは本人だけである。

「あら……あの、えっと、私のことご存知ないでしょうか?」
「君がとても美しくて聡明な女性ひとだということはわかっているよお嬢さんマドモアゼル

 主人であるクラッカー以外にそういう目で見られるだなんて鳥肌が立つほどに気持ちが悪い。ああ、でも角が立ってしまうかもしれない。ふと視線を泳がせれば年上の義弟であるモンドールと目が合った。口パクで物騒なことを呟く彼にそっと首を振る。自身のことで事を大きくするのは避けたい一心だった。モンドールとは本を通じて仲良くなった大切な家族の一員だ。その彼に自分の不始末を押し付けるのも気が引けてしまう。しかし、眼前の男はそんなナマエの様子など気にすることもなく彼女の手を馴れ馴れしく撫でている。粟立つ体にどうしたものかと思っていれば慣れ親しんだ気配を感じた。愛しくて世界一安心するあの人の気配を辿って振り返る。お茶会の入り口にビスケットの城を載せたホーミーズを連れたクラッカーが立っていた。遠征帰りに顔を出すと言っていたがこのタイミングだったのかとホッとするのと同時に掴まれていた両手を思わず弾いてしまった。だってこんな姿を見られて不貞だと思われてしまったら死んでしまいたくなる。それを照れ隠しだと思ったのか目の前の男は気にせずに自身と結婚すればいかにママへ利益となるのかを熱弁しているが全く耳に入らない。どうやったら上手く断れるか悩むが解決策は見つからない。生憎近くに座っている他の招待客は面倒事はごめんだと我関せずだ。ああ、やっぱりモンドールにお願いすればよかっただろうかと、頭を悩ませていれば救世主がやってきた。シャーロット・クラッカーその人だった。

「クラッカー様……」

 半泣き状態のか細い声でクラッカーの名前を呟く。困った様子のナマエと熱心にナマエ口説く男を見て合点がいったのかクラッカーは不機嫌さを隠さずにナマエの傍らに立つ。

「ナマエ。一体誰だ、そいつは」
「その、私も存じ上げなくて……」

 ナマエの言葉を遮るように男は意気揚々とクラッカーに話し掛ける。周りで見ていたモンドールを含め他の兄妹や顔見知りの客人は憐れみの感情を男へと向けた。

「ああ! あなたはナマエ嬢の兄君ですかな。実は私はナマエ嬢に求婚の申し込みを」

 命知らずがいたものだ、と呟いたのはどの兄妹だったか。場の温度が急激に冷めていくのを肌で感じながら、恐る恐るといった様子でナマエはクラッカーに助けを求めるように視線を移した。クラッカーはナマエの肩を優しく抱き寄せる。先程まであれほど困惑していたのに彼の体温を感じるだけでナマエは落ち着きを取り戻す。視界に入るクラッカーはナマエには見せない鋭い目つきで笑いながら冷たい声音で男に向かって囁いた。

「よく聞こえなかったなァ。なあ、おれの妻になにを申し込むんだって?」

 男の胴と首が離れなかったのは運が良かっただけであった。ママがこのお茶会を楽しみにしていて、そして上機嫌に大好きなケーキを頬張っている和やかな時間を壊さない為だけに、男の命はほんの少し延命されただけに過ぎなかった。クラッカーの言葉の意味を理解した男は途端に顔を青ざめて言葉にならない声を発している。ナマエがその男の様子にどうしようと狼狽えていれば、クラッカーは彼女の体を真綿で包むように抱き上げるとそのままママの元へと向かう。

「ママ報告がある。子供が出来た」
「ハ〜ハハママママ、そりゃあいい知らせだ! 今度は男か? 女か?」

「双子だ。また色々世話になるだろうけど、ナマエのことをよろしく頼むよ」

 更に機嫌が良くなるママを見てナマエはほっと人心地をついた。先ほどの諍いはママには伝わらなかったのだろう。それでも近くのテーブルに座っていた客人にはあとで謝罪をしなければと思考を巡らせていれば頭上から声が聞こえる。名前を呼ばれ顔を上げれば彼は慈しむようにナマエに笑い掛ける。体に障らないようにと日陰の席に降ろして貰うと彼はすぐに移動しようとするので、急いでナマエはクラッカーの指先を掴んだ。

「ごめんなさい」

 口から出た言葉は謝罪だった。しかし彼は不思議そうに椅子に座ったナマエと視線を合わせるようにしゃがみ込む。

「謝ることでもしたのか?」
「まさか、あんな風に言われるなんて夢にも思わなくて……でも私クラッカー様しか見てないのよ。本当よ」

 ナマエは堪えきれずに涙を一粒溢した。彼に嫌われたら生きてはいけないという考えから来ていたが、彼がその涙をどういった意味で捉えていたのかをナマエに推し測る術はない。大きな指先が目元を優しく拭い空いた手がナマエの頭を優しく撫でる。子供に接するようなそれだったがその優しさがナマエの心になによりも温かく広がった。

「お前はなにも気負わなくていい。自分の体と子供のことだけを考えて、他のことは全ておれに任せておけばいいのさ」

 ポンと手を叩き産み出されたビスケットがテーブルの上を踊っていく。その様子が可愛らしくて頬を緩ませればクラッカーは彼女に侍女から受け取った膝掛けを掛けると「少し野暮用をしてくる」。とまたママの元へと向かっていった。

「災難ね。でもナマエ義姉さんに言い寄るなんて見る目があるんじゃない?」
「……プリンちゃん」
「可哀想に。死ぬよりもっと酷いことってナマエ義姉さん想像できるかしら?」

 可愛らしくて優しさの塊のような義妹が実はほんのちょっぴりダークな甘さを含んでいることを知ったのは遥か昔のことだ。ニコニコと笑みを浮かべたまま毒付く義妹の言葉の意味を理解しているのかいないのか。泣いた姿を見られたのが恥ずかしい、と的外れに照れながらナマエはお腹に手を当てて困ったように笑う。

「あの方は可哀想だと思うのだけど、でもそれ以上にクラッカー様に優しい言葉を掛けてもらうのが何よりも嬉しいって思ってしまうの。あの……苛烈な表情が私に起因してるんだと思うだけで、死んでしまうほどに嬉しくなってしまうのは、おかしいのかしらね」

 この家は狂っている。そしてそんな家に嫁いできて長年生きている彼女もやはり狂っているのだ。年端もいかぬ小娘に話すには重たい内容だとプリンは溜息を紅茶と共に飲み干した。

「暗い気持ちのままだと胎教に悪いわ。このあと私とショッピングしましょう。クラッカー兄さんもきっと忙しいからそれがいいわよ」
「そうね。プリンちゃんに似合う可愛いお洋服を探しにいきましょう。新しいコスメも」
「ナマエ義姉さんが選んでくれるのなら嬉しい」

 他所行きの可愛らしい笑みを貼り付けたプリンを見てナマエはやっと安堵したように笑った。全く義姉の人たらし癖もどうにかしてほしいものだわ、とプリンは困ったように笑うのだった。

title Garnet
20231018

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