数分前に両耳に走った衝撃と、ガシャンと響いた無機質な音が頭に残って離れない。恐る恐る手鏡で確認してみれば、見慣れないファーストピアスと少し赤くなった耳朶。今までにない違和感がなまえの耳を襲っていた。

「大丈夫? コーヒーでよかったかな」
「ん、ありがと」

手鏡をバッグにしまって、花京院からマグカップを受け取る。ゆらゆらと立ちのぼる湯気と、じんわりとマグカップ越しに伝わる熱はなまえに安心感を与えた。しばらくその暖かさに癒されていると、隣に花京院が腰を掛けた。

「最初はちゃんと消毒しなきゃ駄目だよ。 あと、皮膚がくっついてくるからピアスを回すのも忘れないように」
「うっわ、面倒…しかも痛そう」
「自分の体に穴を開けているんだから当然さ。 放っておいたら化膿してもっと痛くなるけど」
「…頑張ります」

一旦受け取ったマグカップをテーブルに置いて、砂糖とミルクに手を伸ばす。スプーン一杯の砂糖とミルクを二つ。パキ、と蓋を開けてミルクをコーヒーに注げばゆっくりと広がっていく。

ピアスを開けたのはよかったものの、その後のケアのことは全く考えていなかった。勢いというものは恐ろしいものだ。ただでさえ開けたばかりのピアスホールはじんじんと痛み始めたというのに。これ以上痛い思いをするなんて御免だ。なまえはケアを怠らないようにしよう、と心に強く誓った。
花京院はこくりとコーヒーを一口飲んで、ひと息ついてから話を続ける。

「まさか、なまえにピアス開けてほしいなんて頼まれるとは思わなかったな」
「この前さ、友達と買い物に行ったらすっごく可愛いピアス見つけてね。 それでこれは開けるしかないって思ったの」

くるくるとスプーンの動きに沿ってコーヒーに混ざっていくミルクを見つめながらなまえがそう話すと、隣からくすくすと笑い声が聞こえてきた。

「…なに?」
「いや、君らしいなと思ってね。 前まであんなに怖がってたのに」

これまでに何度か友人達にピアスを勧められたなまえはずっと首を横に振っていた。自分の身体に穴を開けるという行為に対して強い恐怖心を抱いていたのだ。イヤリングでも十分可愛いものがある、ピアッサーなんて一生購入しないものとだと思っていた。

そんな時に出会ったあるピアスが、なまえの恐怖心をあっさりと打ち砕いたのである。単純としか言いようがない。
そんなことを考えていたら、なまえの髪が花京院の長い指によって耳に掛けられ、先程開けたばかりのピアスが露わになる。

「とにかく上手くいってよかったよ。人のピアスを開けるなんて初めてだったしね」

緑色に輝くファーストピアスを満足そうに見つめる花京院を見て、なまえも自然と笑みが零れた。

「典明に頼んでよかった。 ありがとね」

こちらこそありがとう。小さく花京院がこぼした言葉をなまえは聞き逃さなかった。花京院に感謝されるようなことをした覚えなど見当たらない。気になったので視線で感謝の意味を問いかけてみた。

「…こんなことを言うのも恥ずかしいのだけれど、君に頼ってもらえたのが嬉しくてね」

優しくなまえの髪を梳かしながら、放ったこの言葉。鮮やかなコンボになまえの胸はぎゅうと締め付けられる。

「…いつからそんなこと言えるようになったの」
「ふふ、ぼくだってやる時はやるさ」

なまえは悔しくなって、得意気に笑みを浮かべた典明の足を軽く蹴った。典明の持つマグカップが小さく揺れる。危ないじゃあないか、と注意されたけど反省はしていない。する気も無い。

「ああ、話が変わるけど」
「なに?」
「なまえが一目惚れしたっていうピアス、気になるな」
「あー、それがね…お金がなくて…」

買い物に行った理由は服のバーゲン。コツコツとバイトで稼いだお金は、服の山と引き換えに遥か彼方に消えていったのだ。一気に財布の中は氷河期を迎え、僅かな小銭とレシート、そしてポイントカードしか残っていなかった。後ろ髪を引かれる思いで、売り場から去ったのである。

「そうか。 …日曜はバイト?」
「? 入ってないけど…」
「じゃあ買いに行こうか、ピアス」
「だけど給料入るのまだ先だし…」
「プレゼントするよ。 なまえのピアス克服記念に」

突然の花京院の申し出に目を丸くしたなまえは、慌てて胸の前で手のひらを振った。

「わ、悪いってそんなの!」
「せっかく開けたのに、売れていたら元も子もないじゃあないか」
「確かにそうだけど…」
「ぼくが勝手に贈りたいだけなんだ。 気にする必要はないよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えてお願いします」
「ふふ、任せてくれ」

申し訳ない気持ちでいっぱいだが、ここまで言われたら折れるしかない。どうせ断っても彼は意思を曲げることはないのだ。大人しく買ってもらおう。

満足そうになまえの頭を撫でる花京院と大人しく撫でられているなまえは、はたから見れば兄妹と言われてもおかしくはない。

「なんか典明の妹みたいになってるよね、わたし」
「そうかな。 でも、妹ならもっと可愛げのある子が…いてッ」
「ごめんなさいねえ。 可愛げがなくって」

なまえが軽く花京院の頭を叩き、わざとらしくそっぽを向いて不機嫌なフリをすれば沈黙が広がる。数十秒後、沈黙に耐えきれなかった二人分の笑い声が同時に部屋にこだました。

日曜は何を着て行こうかな。少しぬるくなったコーヒーを飲みながら、瞼の裏に焼き付いたピアスに想いを馳せた。