「真田」
「みょうじか。どうした」
「あのさ、」
「なんだ」
「腹筋触らせて」

ぶはっとスポーツドリンクを盛大に吹き出した真田に慌ててタオルを渡す。聞くタイミングを間違えたかもしれない。ちらりと横を見れば幸村は下を向きながら肩を小刻みに震わせ、柳は何かをノートに書き込んでいる。

「なっ、何なのだ突然!」
「前から真田って程よく筋肉ついてて良いなあって思ってたから」
「そんなに怒るなよ。触られたって減るもんじゃないだろう?」
「そうだぞ弦一郎。選手の身体を見るのもマネージャーにとって大切な仕事だ」

私の両サイドから援護をしてくれる参謀と神の子の存在はなんとも心強いことか。今なら世界征服もできそうな気がする。
真田は顔からはいつもの威厳に満ち溢れたあの中学生らしくない表情が姿を消していた。一体どこへ行ってしまったのだろう。

「し、しかし!」
「見苦しいよ真田。お前はそんなこといちいち気にする小さい男なのかい?」

部室の空気が瞬く間に凍りつく。幸村の穏やかな笑みの背後には黒いオーラのようなものがはっきりと見えた。真田を力づくで黙らせた気がするけど、そこはあえて触れないでおこう。私はまだ死にたくない。
よし、これで真田の腹筋を触れる。そう確信したと同時に罪悪感が芽生えてきた。こんなどうしようもない私の願望のせいでこんな恐ろしい思いをするなんて、彼はこれっぽっちも思っていなかっただろうに。
でも腹筋を触りたい。本音を言うなら腕も。
私の脳内で天使と悪魔の抗争が勃発しそうになりかけたその時、私の肩に幸村の手が乗せられた。早く触ってしまえ。二人のアイコンタクトによる脅し、もとい指示が出されたので最後に確認をとる。

「真田、いい?」
「……」

イエスと言わざるを得ないこの状況。もはや確認なんて意味がないのはわかっている。

「それじゃあ早速。失礼しまーす」

心の中で真田に謝罪をして、そっと彼のユニフォームの裾を捲り、腹筋に触れる。

「おおー、硬い!」
「あ、あまりべたべた触るな…!それと蓮二、お前は何をしている!」
「データをとっているだけだ。気にするな」

柳はいつもと変わらぬ落ち着いた表情で、またノートに何かを書き込んでいた。幸村は先程とは打って変わってまるで聖母のような笑みを浮かべ、私が真田の腹筋を弄る様子を見ていた。

「…っ!」

楽しそうな二人を横目で見つつ、真田の腹筋を堪能していたら頭上で変な声が聞こえてきた。

「どうしたの真田」
「お前が擽るような触り方をするから…!」

こんなチャンス今後一切ないだろうと思って真田の腹筋を思う存分に堪能していたら、いつの間にか擽っているような触り方になってしまったようだ。「あ、ごめん」と言って手を退ければ、彼は恥ずかしそうに俯いてしまった。

「もういいのかい?」
「うん。十分堪能させて頂きました!ありがとね、真田」

真田はまだ俯いたまま、自分のお腹に手を当てていた。私が触りすぎたせいで、蕁麻疹のようなものでもできてしまったのだろうか。胸の中が罪悪感でいっぱいになる。

「ご、ごめん。もしかして具合悪くなったりした…?」

一流ホテルの従業員もびっくりするぐらいに頭を下げて謝れば「いや、俺は至って健康だ」といつもの落ち着いた真田の声が頭上から降ってきた。

「なら良かった。あ、」

やばい、もうこんな時間。母さんから帰りに醤油買ってきてって頼まれてたんだった。

「あの…悪いんだけど母さんから買い物頼まれててさ。お先に帰っちゃってもいいかな?」
「ああ、片付けも終わってるし構わないよ」

幸村から許可をもらって急いで部室を出る。

「ありがとう!真田、今日は本当にごめんね」
「ああ…」
「今度お礼したいから何がいいか考えといて!」

「じゃあ、お先に!お疲れ様ー!」と忙しなく駆けていくみょうじの足音が遠くなるのを確認してから、俺は真田に声をかけた。

「お礼だってさ。デートにでも誘えばいいじゃないか」
「デッ…デデデデートなど!」
「落ち着け弦一郎」

中学テニス界では皇帝なんて呼ばれる男が、彼女のことになるとこの調子だ。見ての通り、真田は彼女に惚れている。ちなみに、このことを知っているのは俺と蓮二だけだ。
それはさておき、これからこの男はどうするつもりなのだろうか。このままみょうじに振り回されたままで終わる?それとも勇気を出して告白する?
お節介かもしれないが、はっきり言うと見ていてじれったくなる。ここは友人である俺達が手伝うしかないだろう。なにせ彼女は突然真田の腹筋を触りたいと言って、実行してしまう程の(俺と蓮二も手伝ったけど)手強い相手だ。

「楽しんでいるだろう、精市」
「ふふ、蓮二も人のことを言えないだろう?」

未だに混乱している真田を見ながら、そう遠くない未来のことを考える。さて、これからどうしようか。