ずるいやつだなあ、オメーは。静かに声が響いたかと思えば次の瞬間には世界が引っくり返ったのだった。目の前の彼を見ていたかと思えば次に視界を埋めたのは無機質な天井と今の今まで見詰めていた彼の、どこか不機嫌そうで切羽詰まったような泣き出しそうなそんな複雑な表情だった。らしくないなあ、なんて至極どうでもいい感想が脳のほんの一部分を塗りたくる。それからはたとこの状況を思い出してやっと彼が自分を押し倒したのだと気付いて、なんだか胸の辺りがざわざわと騒がしく揺らめいたような気がした。
「ずりーわ、オメー」
「なにが。…ですか」
「そういうところだよ」
 取って付けたような敬語だよ。と低い声が耳元でゆるゆると漂う。吐息が耳朶に触れて思わずふるりと肩が揺れた。彼にがっちりと力強く掴まれた両手首が痛くてどこかちりちりと熱くて、それが脳へ伝わったようにくらくらと目眩がするようだった。押し倒された勢いで手元からお腹の上にぶっ飛んだ文庫本がばさりと床へ落ちる。国語準備室に常備されているソファーは三人掛けだったがこの状況下では些か窮屈に感じた。
「俺の負けだわこれ、参ったなァ。…何、大串くんと付き合ってんの?」
「いいえ」
「じゃ、あー、沖田?」
「いいえ」
「えっもしかしてジミー?変わってんなオイ」
「退は確かに好きですが、そういうことかと問われれば違います」
「うわなんか妬けるわー。…で、結局誰なわけ?お前が熱を上げてるやつ」
 高杉?ヅラ?神楽の兄貴?まさかゴリラ?いや純粋そうな新八か?眉根を寄せながら次々と自分が受け持っているクラスの生徒の名前をあげる。一頻り言い終えたところで、銀八は自分の下で大した表情も浮かべずじっと此方を見詰めているいろの双眸をふと覗き込んだ。俺もまだまだわけーんだなァなんてぼんやりと考える。
「さあ?誰だと思います?」
「いやな子だねーまったく」
 どこかひきつった余裕がないような顔で笑いながら銀八の男らしく骨張った手が荒々しく首元のネクタイを緩める。それからだらしなく鼻の上に引っかかっているだけの眼鏡を雑に外して適当に机の方へと放り投げた。かしゃん、という情けない音をたてて無事机の上に着地する。
「すっかりほだされちまったわ、いい大人がよ。…ついこの間までべったべったべったべった引っ付いて来やがった馴れ馴れしい女子生徒が、急に距離を置いてよそよそしくなったぐれーで柄にもなく焦っちまってこの様だ」
「人間らしくて、いいと思いますが」
「そーかよ。まあ詰まりだ。俺には今余裕がない。ゼロだ。どっかの誰かが一週間二週間、1ヶ月とまともに会いに来ねーからな」
 そうですか。と1ヶ月前より随分と大人びた声音でいろが静かに言い放った。それがなんだか自分に興味がないと言われたように感じて、更に銀八の表情から余裕という大人として必要不可欠な要素が削げ落ちる。犬かよ、と自分の冷静さを欠いた一連の行動に胸中で突っ込むも残念ながらそれを自制できるほどの理性もない。兎に角。
「オメーが誰のモンでも関係ねえ」
 この瞬間を待ちわびていたのだ。
「俺じゃなきゃ無理だって言わせてやるよ」



暗転




 押して駄目ならなんとやら。


 




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