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「まだ残る?」

声の聞こえた方向へ視線をやると、上司である彼。仕事終わってないんですけど帰ってもいいですかね?と。力のない声でそう発言した私を黒尾さんは嘲る。別にいいんじゃねぇの?と言葉を返してくれたので、私も彼と同じタイミングでこの淀んだ空気の蔓延るオフィスを去る決断をした。明日も残業せねばならぬのだろうか。だいたい、仕事が回ってくるのが異常に遅いのだが、あの部署は一体、どうなっているのだろうか。カレンダーとか時計とか、現在が何月何日の何時何分だかわかっているのだろうか。締め切り間近に放り投げられるこちらの心情を察する努力を怠っているのではないだろうか。余力があればここまで、この一連の文句を黒尾さんにぶつけていたのだが、そうする体力さえも残っておらず、疲れたという、その四文字に凝縮した。机の上は若干散らかっているが、もういい。今日はもう、どうでもいい。

「はいはい、お疲れ」
「すみません、声かけていただいて」
「花火大会行かねえの?」
「え?」
「花火大会」
「花火大会?」
「え、音聞こえんじゃん」

この春からこちらの事業所に移動となり、仕事の内容は以前とほとんど変わらないのだが環境が変わったせいで、ドタバタと大きな音を立てながら毎日が過ぎ去っていくのを感じる。平穏だった半年前が恋しくてたまらない。黒尾さんはこちらに来た時に指導係として私としばらく一緒に仕事をしてくれた。少し歳上だが子どもっぽいところと大人っぽいところをちょうど半分ずつ持ち合わせた、親しみやすい人だ。ぱっと見、とても無愛想に見えるのだが面倒見も良く、世話焼きで、冗談もよく言う。とても、好きだった。ライクなのかラブなのか、と問われるととても難しい。だって、私は知っているから。恋人がいるって。春、私がこちらに移動してきたときの歓迎会で、少し離れた席で新卒の女の子に甘ったるい声で聞かれていたのをよく覚えている。

「あ、そっか。こっち来たばっかだもんね」
「夏の終わりに花火があがるんですね」
「あがるんですよ、こんな時期に」

もっとも、今年は連日喧しいほど報道されている酷暑だ。8月の末、言うまでもなく、まだうだるように暑い。冷房をつけていないととてもじゃないが仕事…いや、日常生活さえもままならないほどである。

「黒尾さんは?地元もこの辺ですよね?」
「高校生の頃に行ったっきり」
「彼女と?」
「いや、まぁ、」
「いいですね、青春って感じで」
「おちょくってんの?」
「花火大会かぁ、いいなぁ」
「チラッとでいいなら車で近くまで行くよ?」
「え?」

オフィスの冷房と照明を消しながら、彼はそんなことを提案してきた。私がどう返事をしようか迷っていると、エレベーターに向かって歩き出す。

「え、あの、」
「ん?」
「いいんですか」
「いいよ、つーかみょうじさんって家どっち?」
「えぇと、緑川です」
「じゃあついでだし、家まで送ってくよ」
「えっ、いいです、電車で帰れます」
「すげえ混むんだって、駅も電車も」
「そ、そうなんですか」
「そうなんです、車の方がまだマシだから」
「でも、なんか」
「久々に見たいからさ。付き合ってくんない?」

そう言われるともう、話はまとまってしまって、申し訳ないと思いながら私は彼の車に乗り込む。緊張、なんだろうか。それとも久しぶりに乗った異性の助手席だからだろうか。変に落ち着かなくて、いつもなら普通に適当な会話ができるのに今はそれどころじゃなくて。

「仕事大丈夫?」
「え?あぁ、はい、大丈夫…なんですかね、ちょっとまずいような気もしますけど」
「なんだそれ」
「自分のことでいっぱいいっぱいなので…今も周りのこととか把握できてないし」
「いいでしょ、周りのこと把握できてないってわかってれば…それでじゅうぶんじゃね?」

この人のこういうところが、嫌いだけど、好きだ。黒尾さんは多分、誰にでもこうなんだ。なのになんか、「あれっもしかして私、特別扱いされているのでは?」なんて、そんな錯覚まで覚えてしまう。オフィスであれば、あの煌々とした明かりと殺伐とした空気で我に帰ることができるのだが、暗い車内と、絞られた音量の洋楽は切ないメロディで、ちょっとこれは、本当に、難しそうだった。

「あの、」
「はい、なんでしょう」
「黒尾さんて、よく勘違いされません?」
「勘違い?」
「女の人に」
「女の人に勘違い?」
「優しいから」
「優しい?俺」
「優しいですね」
「褒めてる?」
「…まぁ、はい、褒め…てますね」
「なに、その間は」

あんまり自覚はないんだけど、と。彼はポソリ、呟いた。それに付け足すようにもうひとつ。

「誰にでも優しい訳ではないと思うんだけどね」

打ち上げ花火の音が、かなり近くなっていることに全く、気付けなかった。それくらいこのとろりとした、色っぽい空気にやられている。窓の外に目をやればキラキラ、花が咲いて、溢れて、散っていた。変な空気をどうこうしたいとか、そんな気は一切なかったが、自然に声帯が震えるのだ。

「…綺麗ですね」
「見える?」
「はい、すみません、黒尾さん運転してるのに」
「いや全然」
「今年初めて、夏っぽいことしました」
「まじで?意外」
「友だちとはあんまり予定が合わなくて…ちょっといいなぁと思ってた人からは返信こないし」
「ちょっといいなぁと思ってた人?」

夏に入る前だろうか、友人の友人みたいな人と何度か食事をしたがそれ以上にはならなかった。悪くない人だったが、お互いになんとなく察していた。付き合うことにはならないと、わかっていた。しつこく連絡をするのもやめておいたし、追うまでの熱量は、私になかった。

「はい、3つ上の」
「歳上好きなの?」
「いや、そういう訳じゃないんですけど」

余計なことを言った気がしたが、時間が巻き戻るわけもなく、掘り下げられるのも小っ恥ずかしくて。私は窓の外の花火を見ながら答える他なかったが、沈黙も気まずい、うまく話題を転換する術もない。となると、私の唇は適当な言葉を紡ぐために動く。

「春は入社したばっかで、余裕なかったし、とにかく仕事仕事仕事って感じで…でもちょっと慣れてきたらやっぱり、いや、まだ慣れてもないんですけど、」
「寂しいとか?」
「…黒尾さんは寂しくないんですか?」

ちょっと、いやかなり皮肉を込めて言った。だいたい、彼女がいるのに私なんかを車の助手席に乗せて花火を見ているのって、結構まずいのではないだろうかと、誘われた直後から悶々と1人で考え込んでいたせいもあるだろう。私の声はすごく、嫌な、意地悪な声だったから。

「なんで俺、彼女いない設定なの」

そんな私に気付いているのかいないのか、黒尾さんは冗談みたいな、面白おかしい感じでそう言って、ブレーキをゆったり踏み込む。赤信号だ。

「まぁいないんだけどさ」
「えっ?」

恥ずかしいから、顔が緩むから、見たくないのに。見たくないのに、運転席の彼を見てしまった。花火の打ち上がる音がひっきりなしに聞こえる。多分、フィナーレが近付いていた。でも、それどころじゃなかったのだ。

「え、あの、黒尾さん、確か、彼女いるって言ってませんでしたっけ?」
「ん?」
「歓迎会の時」
「あー…言ったっけね?」
「言ってましたよ、私ちょっとがっかりしましたもん」
「なんで?」
「だって黒尾さんかっこいいじゃないですか、背高いし仕事できるし」
「あら、本当?嬉しいねえ」

信号が変わる、彼はもう、こっちを見ない。フロントガラスにぶつけられた言葉は、ちゃんと跳ね返って私に届く。

「でもあんま、アレよ」

ねぇ、だからさ。こんな空気になったら誰だって期待するよね?誰だって勘違いするよね?私はもう完全に自惚れて、彼の言葉を待って、心臓をうるさく動かして。

「会社の上司に期待させるようなこと言っちゃダメよ」

笑って彼の肩でも叩けばいいのだろうか。ホラ、そういうところですよって、ケラケラ笑えばいいのだろうか。それとも可愛子ぶって「え〜、それってぇ、どう言う意味ですかぁ?」って、彼のワイシャツを指先で掴んで言えばいいのだろうか。判断できずに黙ってしまい、きっとその沈黙が気まずかったのだろう。黒尾さんは私の言葉を待たずに続けた。

「好きな子からそんなこと言われると、期待しちゃうからさ」
「…黒尾さんだって、揶揄わないでくださいよ」

枷がなくなった私はもうどうにでもなれ…とまでは思っていないが、そちらがそう言うのならこちらだって思っていることを言わせてもらおうと、あまり言葉を選ばずに言った。フロントガラスに向けてじゃない。黒尾さんに向かって、ぶつけた。

「冗談でも…そんなこと言われたら、期待しちゃうから、やめてください」
「…期待してればいいんじゃねぇの」

シュチュエーションは完璧だ。夏の夜、車内、ふたりきり、漆黒の夜空にはカラフルな花火が咲き誇り、それが打ち上がる音と洒落た洋楽がBGM。恋人になるしかないこの環境。

「なんでそんな言い方しかしてくれないんですか」
「はい?」
「私は黒尾さんのこと好きだから…、彼女にしてほしいんですけど」
「…なったらいいんじゃない?」
「だから、そうじゃなくて、」
「はいはい、好きだって、好き好き、結構前からずっと好き」
「なにそれ、」
「緊張してんだからこの辺で許してよ」
「え?」
「あのね…こっちがどんだけ勇気出して誘ったと思ってんの」

もういいでしょ、と彼が言うので、もういいですって言った。じわじわ嬉しくて、私が座っている助手席と、彼が座っている運転席のこの距離が、遠く感じてもどかしいから勝手に決めた。来年はどんなに混んでたっていいから車から降りてこの花火を見ようと、勝手に決めた。

2018/09/11