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女の肩を見たのは、初めてだった。
うだるような暑さ。電車から降りればそこは地獄、むわりとした空気がその駅に降り立った人間たちを取り巻く。呼吸するのが億劫になるほどだ。夕方、日中降り注いだ日差しをたっぷりと吸収したコンクリートはそれを存分に放出する。迷惑なのでやめてくれないだろうかと、そんなことを松川は思っていた。部活終わり、一応制汗剤やらなんやらで身体をさっぱりをさせたというのにこれだ。だから夏は嫌なんだ。身体にぺたりと張り付くワイシャツが鬱陶しくて仕方ない。足取りだって重くなる。自分を動かすことがもう、嫌になるくらいに暑いのだ。こんな気温だからだろうか。春が来たと同時にいなくなった女が、今流行りのオフショルダーを着て、ぐりぐりと巻かれた長い髪は邪魔くさそうで、暑いんだったらそれをくくるなりカットするなりすればいいのに、あの女らしいな。そう思うと同時に松川は女のむき出しの肩を掴んで呼び止めていた。衝動的なものだった。

「ひゃっ、」
「っ、すみません」
「…一静くん、びっくりしたぁ」
「お久しぶりです」

1つ年上の女、なまえ。松川はこの女に想いを寄せていた。可愛い、というよりは綺麗な感じで、高校生のくせに(松川も高校生だが)妙に色っぽい雰囲気の人だった。大学生の彼女に今日初めて会ったが、それがまた増したような気がする。もともとの顔は多分、松川が推測するにだが割と童顔。化粧やら髪型やら制服の着こなしやらで、そんな空気を作り出すのが上手いのだ。長めのアイラインは目幅よりも少し長く跳ね上げてかいてあるし、チークはヌーディなカラー。薄めの唇をぽってりと見せるためにリップペンシルでオーバー気味にかいていることはほとんど、誰も知らない。もちろん松川も。

「久しぶり、部活?」
「はい、なまえさんは?」
「バイト終わりだよ」
「そうなんですね」

パッと、触れていたところからは手を離したが、手のひらはじんじん熱い。季節が変わっても未だに好きな女を見つけてとっさに掴んでしまった。なまえはそれについて何も言ってこなくて、松川はまた落胆するのだ。あぁまだこの人の中で自分はあくまでも「可愛い後輩」なんだって。告白をした時に言われた台詞だ。未だに脳内を侵食して、逃がしてはくれない。

「卒業以来だもんね、しぃ、ごぉ、ろく、ななだから…4ヶ月ぶり?」
「3月の頭でしたからね、卒業式。ほとんど5ヶ月じゃないですか」
「わー、もうそんなに経つんだ、早いね」

髪の色はほんのり明るくなっていた。化粧もしっかり施されていた。私服はこんな感じなのか。それなりによく知っているはずの女が、全く違って見えて、遠い存在になってしまったんだと悲しくもなる。自分はまだこの青葉城西の制服に身を包んで、5ヶ月前と何も変わらない生活をしている。学校に行って、授業に参加して部活して。その間に彼女はアルバイトを始めたのか。大学でたくさんの新しい友人と出会ったのだろうか。なんとも形容しがたい虚しさが松川に襲いかかる。

「暑いのに大変だね、部活」
「はい、」
「今年、強いんだってね」
「…そう、ですかね」
「一静くんレギュラーなんでしょ?すごいね」

聞きたいことはたくさんある。大学どうですか、大変ですか、楽しいですか、バイト何やってるんですか、彼氏いるんですか。どれも聞けやしなかった。口を動かせばいいんだ。頭に浮かんでいる言葉をするりと吐き出せばいい。気さくで余裕たっぷりの彼女はきっとにこにこしながら答えてくれる。そうわかっているのに聞けなかった。この気温にだいぶ脳もやられているはずなのに、その辺の判断がしっかりできる自分が、松川は嫌だった。大嫌いだった。

「…今日、暑いね」
「あの、」
「ん?」
「ちょっと話せませんか、どこか入って」

にっこり笑ったなまえは美しかった。バイト終わりのくせに口紅が綺麗に塗られていたし、まつ毛は上を向いて胸を張っているようだ。この暑さなのに、だ。もしかしたらと思う。「この後デートですか」なんて、聞けもしないし聞きたくもなかった。

「ごめんね、ちょっと用があって。ゆっくりはできないんだ」

優しいのだ、この人は。それを知っている松川はそうですか、とへらへら笑うことしかできない。あぁ自分のものにしたい。ぎゅっと抱きしめたら彼女はなんて言うだろうか。どうしたのって、自分以上にへらへら笑ってさっと逃げるんだろうな。

「ここでじゃだめ?」
「まだだめですか」
「え?」
「彼氏になれませんか、なまえさんの」

誰しも足早に帰路に向かっている。2人を気に止める人間などいない。松川はしっかりとした声で言ったが、内心はびくびくと怯えていた。しつこい男って、そう思われやしないだろうか。うっとおしい、邪魔臭い、面倒臭い。そう思われたって仕方ない。自分は1度、振られているのだ。ごめんねって優しい笑顔で言われている。それでも彼女のことが忘れられないし、忘れたくない。

「だめですか」
「一静くん、まだ私のこと好きなの」
「まだ5ヶ月しか経ってないじゃないですか」
「5ヶ月だよ?」
「まぁそうですけど」

なまえはあからさまに困っていた。困っていたし、心なしか露出した肩が、頬が赤くなっているような気がして松川はひたすらに疑問を抱く。あれ?なんだこれ、思っていたリアクションじゃないぞ、と。そんな具合だった。

「…なまえさん、これからデートじゃないんですか」
「えっ、なんで?」
「…綺麗だから」
「…なにそれ」
「口紅、」
「…色付きのリップクリームだよ、さっき急いで塗り直して、」
「なんで?」
「なんでって…」

もじもじと、ごにょごにょと。なまえはちらりと松川を見たり地面を見たり忙しそうで。男はその様子をじいっと凝視するものだからなまえは余計に恥ずかしくなる。歳下の男から思ってもみない告白をされて約半年、隣の車両に見覚えのある姿を見かけてどきり。急いで口紅の代わりにそれを塗り直した、なんて口が裂けても言えやしない。降りるまでの二駅の間に幾つか会話のシュミレーションをした。このまま真っ直ぐ家に帰るだけだが、喫煙席もあるカフェで働いているから髪に煙草の匂いがついていそうだし、この暑さで崩れたメイクを晒しながら話す気になんてなれないから約束があるフリをしているなんて、言えない。会えて嬉しいのも、肩を掴まれてドキッとしたのも言えない。言ったら溢れそうだから。告白をされたあの日から、松川のことがほんのり気になっている。それはまぎれもない事実だった。でももう彼は自分のことなんて忘れて、新しく恋をしていると思っていたから。

「…なまえさん?」
「一静くん、あの、また今度話そう?」
「今度、ですか」
「週末時間ある?部活?」
「再来週なら、」
「連絡して、待ってるから」
「…待ってるんですか」
「うん、今日はごめんね。またね」

また、と。唖然とする男に女は長い髪をゆらりとさせて今日連絡してねって手を振った。ヌーディーな頬が赤らんでいて、松川は何か期待してしまう自分に嫌気がさすが、妙にいい気分だった。わがまま言うんだあの人。今日連絡していいのか?デートなんじゃないのか?暑さでおかしくなったのかな。それなら夏だって悪くないな。そう思って身体に張り付いたワイシャツをパタパタとあおぐが、汗が引くことなんてなかった。

2017/07/11