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代わり映えしないメニューに毎回目を通すくせに、毎回カプチーノを頼む女の名前を、花巻はまだ知らなかった。自分よりも幾つか歳上だということは彼女の持ち物や身なりから察することができるが、それ以上の自分が知りたい情報はなにも、知り得ない。ここがアルコールを提供しているバーでだったら聞けているのに。いや、花巻は多分、それでも聞けない。気の小さい男なのだ。優しくて繊細で空気をたっぷりと読む、そういう男だ。

「名前くらい聞けばいいじゃん」

キャンパスは初々しい一年が蔓延り、あまり好みの雰囲気ではなかった。この新入生たちは勘違いをしている。悪いが、高校生から大学生になったって、別に、特別何か起こるわけでもない。この、うだうだと親友に恋愛相談をする花巻も、半年近くもの間、何の進展もない話を聞いている松川も、特にこれといって、なにもない。そりゃあ普通に楽しいことは腐るほどある。でもまぁそんなのって高校に通っている時にも感じることのできた楽しさであって、つまり本当に、延長なのだ。あの三年間の延長。それだけだ。

「名前くらい?」
「名前くらい」
「聞けてたら、」
「もう聞いてますよね、はいはい」
「おい」
「どうせ花巻は俺がなに言ったって何もしないよ」
「おいおいおーい」
「事実でしょう?」

友人の言葉は全て的を得ていたから、色白な男はしょんぼりしてしまう。あの女がせめて、同じ大学の下級生だったら何か少し、行動できたかもしれない。でも、憧れのあの人はきっと自分よりも数年早く生まれているし、確実に学生という括りからは外れている。新社会人という雰囲気もない。自分のアルバイト先に半年近く通ってくれている。毎回仕事終わりであろう時間ー…だいたい19時頃に少し疲れた表情でやってきて、さっと注文をしてさっと受け取ってさっと出て行く。特に、気にならない客だ。なにかクレームをつけてくるとか、お金を出すのがやたらに遅いとか、細かいことを質問してきたりとか、そういう、こちらの労力を奪い、無理矢理にでも記憶に残ってくるような、そんなタイプではない彼女のことをよく覚えているのは、やっぱり、どう考えたって、勝手に惚れてしまっているわけで。一目惚れになるんだろうか。確かに、彼女の見た目が、花巻はとても好みだった。特別美人でもないし(ものすごく普通に綺麗な人であるには違いないが)モデルみたいにスタイルがいいわけでもないが、なんとなく、惹かれる。そんな恋があったって悪くないだろうと、そう花巻は思ったりしているのだ。

「だいたい、彼氏いたらどうすんの」
「…合コン開催して」
「開催したってそのカプチーノのお姉さんと比べちゃうでしょ、貴大くんは」
「比べません」

花巻は、それなりによくモテたが、あまり自分から異性を好きになるタイプではなかった。歴代の彼女たちと恋人になる時はほとんど、女たちの方から「付き合おうよ」という契約を持ちかけているのだ。もしくは、そういった言葉の契約を交わさずにズルズルと、か。どちらかがほとんどだ。流されやすいというか、断るのが上手くないこの男は、なんとなくのまま付き合うのだが、そんななんとなくな恋愛がきちんと進むわけもなくて、大概とても短い時間でサヨナラをする羽目になる。

「なんかこう…どうしたらいいんだよ、付き合うって何?」
「拗らせてるねえ」
「笑ってんじゃねえよ」
「飯とか行くんじゃない?」
「は?」
「はい?」
「行けるわけねえだろ」
「なんで」
「どうやったら飯行く流れになるんだよ」
「そりゃ今のままじゃならないだろうね」
「だろ?」
「そこは花巻がそういう流れにするんだよ」
「できるわけ、」
「ないよねえ、わかるわかる、だよねえ」

松川はもう結構、面倒臭くなってきていた。なんなら結構前から面倒だなあと思っていたのだ。昔からの友人の恋愛相談に親身になりたいのは山々だが、二進も三進も動かない恋愛の話など面白いわけもなく興味がわくわけもない。返す言葉もすっからかんなわけで、アドバイスをしたって「でも」「だって」の連続。やっていられないのは当たり前だった。むしろよくここまで話を聞いてやっていたもんだと、自分を褒め称えたくなるほどである。だから、ちょっと、意地悪をした。可愛い可愛い、意地悪だ。

「前から話聞いて思ってたんだけど、そのお姉様、絶対美人でしょ?」
「当たり前だろそんなもん」
「今日行っていい?」
「は?」
「今日、花巻のバイト先」
「なんで」
「見てみたいな〜って」
「俺のバイト姿?」
「カプチーノお姉さん」

じわっと笑う濡れたような黒髪の男の目が結構それなりに真剣な気がして、花巻はものすごく、嫌だった。数秒瞬きもせずに静止し、え?と聞き返す。松川はコンピューターが埋め込まれているのだろうかと疑いたくなるくらいに、先ほどと同じトーンで言葉を発する。見てみたいな、カプチーノお姉さんって、言う。

「なんで?」
「花巻の話聞いてたらいいなって思って」
「いいなって思ったの?」
「うん、ダメ?」

今すぐ家に帰ってベッドに寝そべりたかった。目眩がする。こんなところで花巻の想像力が開花し、自分が思いを寄せる女といま目の前にいるこの松川一静が肩を並べて、なんなら腕なんか組んじゃったりして、煌びやかな夜の街をゆったり歩いているところが想像できちゃったりして、それがすごく、絵になっているのにもうんざりした。

「だ、だめっつーか、彼氏いるかもしれないじゃん、ほら、そうそう、彼氏が、」
「彼氏なら良くない?」
「彼氏なら良くない?」
「略奪愛ってやつ?」

旦那だったらダメだろうけど、と。松川は何も本気で花巻の狙っている彼女が気になるわけではない。もちろん、そんなの当たり前だしどちらかと言えば昔から付き合いのある友人にエールを送っているのだ。わかっているから。花巻はこうでもしないと行動を起こせないのだ。とても、とても優しい男だから、相手の気持ちを汲み取り過ぎるのだ。あわあわとする彼が少し可哀想になって、促してやる。今日はバイト何時から?と、この色男特有の微睡んだ声で、ゆっくりと発音する。

「っ、あ、やべ、もう出るわ」
「うん、がんばってね、お気をつけて」
「おう」

花巻が行ってしまって一人きりになったのに、松川は笑い転げたくて仕方なくて、大きな手のひらで口元を隠し、周りに気付かれないようににまにまと笑みをこぼす。何あいつ、本当面白い。背中にたっぷり頑張れという念は送りつつ、明日の報告が楽しみでならなくて、あぁまた笑えてきて、もう机に突っ伏すしかなかった。

2018/04/19