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変わればすれ違うのは当たり前のことで、でもなまえはそれがこんなに痛いなんて、思ってもみないわけで。

「黒尾くん、遅刻するよ」
「…ネクタイ、」
「そっちのにしなよ、先輩からもらったやつ」
「なまえさんがくれたのがいいんだけど」

初日だし、と黒尾はごねるが、そんなに都合よく時計は止まったりしない。入社式の時間が変更になることもない。なまえは子どもを宥めるように言う。嬉しいけど、と前置きをして、柔らかく話す。

「今日のスーツとシャツの色に合わないと思う、そっちの…先輩からもらったのにしなよ」
「これ?」
「うん、それ。かっこいいと思うよ」
「…本当に思ってる?それ、」
「うん、思ってる思ってる。ほら早くしないと本当に間に合わないって」

桜は麗らかに咲き誇り、気温はぴゅんと上がって、クリーニングから返ってきたコートはクローゼットの奥でしばらく休養。大学を卒業した彼は、ぴっかぴかのスーツに身を包んで、なんかちょっと緊張していて、ぎこちない表情が可愛かった。歳下の彼氏である黒尾は、同年代と比べたらかなり大人びた容姿ではあったが、歳上の彼女のなまえの前では単純に“歳下のオトコノコ”であった。ネクタイも上手に選べない、なまえにとって黒尾は、そんな彼氏だ。黒尾からしたって、なまえは姉のようで、母のようで、でもなによりしっかり、恋人だった。自分のことを時折五歳児のように扱う女にヤキモキもするが、その器の大きさに感服することの方が多い。今だってそうだ。彼女に「はいはい上手にできましたね〜」って、そうやって調教されている感じなのだが、まぁ特に、悪い気はしないのだ。そんな2人だった。

「借りてきたの?」

黒尾が入社したての頃、話題になっていた映画はあっという間に上映期間が終わってしまった。そして、瞬く間にDVDが発売され、レンタルも始まっていた。「これ気になってるんだよね」そう黒尾が呟いたのを、なまえは覚えていた。ちょうど彼が働き出したばかりの頃で、比較的余裕がなかったのだ。黒尾はカレンダー通りに出社するような会社に勤め、なまえは出社時間も出勤日も気分屋な先輩が作成するシフト次第だったので、時間を合わせるのが難しかったのだ。

「うん、もうDVD出てて…早いよね、びっくりした」

彼が学生の頃は、よく映画館に行けたのに。だからなまえは、平日休みが好きだった。シフト制の勤務形態に感謝をするほどだった。ガラガラの映画館にポツンと2人並んで腰掛け、2時間黙って過ごす。お互いの存在は認識しつつ、でも言葉なんて交わさずに、ポップコーンは食べず、上映後もエンドロールまでしっかり見届け、大きなスクリーンが真っ黒になってから数秒後に席を立つ。映画の感想は特に言い合わない。まぁ、出会ったばかりの頃、黒尾がアニメーション映画を見て号泣している時はさすがのなまえも、笑わずにはいられなかったが。

「まだ観てなかったんだ?」

金曜の夜、街は賑やかで、なまえの部屋は先ほどまでしんと静かだった。彼はこの夏、いい成績を収めたようで、会社の上司と飲み会に行くと、それは少し前から聞いていたので特に問題ではなく。なまえは仕事が休みだったので、家のことを簡単に済ませ、ちょっとした買い出しをしたくらいで、特に印象のない休日を過ごし、そしてこのDVDを借りてきた。また明日から仕事だなあと、休日の終盤に湧き出てくる当たり前の感情を抱えながら黒尾の帰宅を静かに、待っていた。男が働き出してから、一緒に過ごす時間はかなり削減されてはいるが、仕方のないことだと、割り切っている。なまえは自分に言い聞かせていた。黒尾くんはもう学生じゃないんだと。己の足でしっかりと立って、もしかしたら自分よりもきちんとした社会人として生き始めているのだ。元々希望していた業界に内定が決まって、お祝いでちょっといいシャンパンを買ってやって、足の長い安いグラスは澄んだ音なんて響かせてはくれなかったが、それでも幸せだった。ただ、その頃から気付くべきだったのだ。
黒尾くんは子どもじゃないと、もっと早く、そう理解すべきだったのだ。

「え?」
「それ、もう観てると思ってた」
「…黒尾くん、観たの?」
「もっと早く観ればよかったのに」

すげえ面白かったよと、そう続ける男は飲酒しているはずなのにあまり酔っ払っている感じはない。昔は自分の方がアルコールに耐性があったのに、もうすっかり、彼の方が強いんだろうなと女は勝手に悲しくなった。

「もう観てたんだ」
「うん、大学の頃の友達と」
「そっか、観たいって言ってたもんね」

知らない彼が増えていく。なまえはそれが単純に怖かった。全部知りたいなんて言わないが、こうやって黒尾は自分の知らない間にぐんぐんと成長して、なんの前触れもなくパッと消えてしまうのではないのだろうかと、そう恐怖を感じずにはいられなかった。左手首に巻きつけられた腕時計が、いつの間に、どういう理由で新調されたのか、なまえは知らない。時計変えたんだね、と聞いたって彼はあぁうんって返事をしただけだ。

「これから観るの?」
「…あ、うん、」
「俺ももう一回観ようかな」

なまえの隣、ソファにストンと腰をおろす黒尾に触れたいし甘えたいし飲み会に女の子がいたのかどうかも聞きたいけれど、そんな欲望や詮索はスマートじゃないとわかってはいるから。私は彼の彼女なのだ、歳上の、仕事もプライベートも充実している、自立した女なんだと言い聞かせていた。だからもう、あの頃のように仕事の愚痴を彼にぶつけたりしない。彼の仕事やプライベートにも余計な口出しはしない。そうしないと、関係が壊れてしまうと、そんな風に女は思って、でも先程からひっきりなしにメッセージを受け取り、通知音をテンポよく鳴らす彼のスマートフォンに、泣きたくなったりもした。先程までの飲み会のメンバーが「ありがとうございました!」「また飲みましょう!」なんて会話を繰り広げているのは、考えなくたってわかることだから。

「…私、今日はいいや」
「ん?」
「明日仕事だし、先寝るね」
「風呂は?」
「明日の朝にする」

黒尾は知っている。なまえは朝風呂が嫌いだった。それもかなり、嫌いだった。寒いし眠いし朝から疲れるから夜に済ませてしまいたいと、そう言っていたのを覚えているし、実際彼女は夜中、日付が変わった頃に酔っ払って帰ってきても、サッとシャワーを浴びてから眠る人だとわかっているから、違和感を感じて呼び止める。女が自分になんて言葉を返してくるかは大抵予想できるが、それでも。なんかあった?って、聞いてみる。

「なまえさん」
「なんにもないよ」
「って言うのはこっちもわかってんだけどさ」
「…離して」
「何もないわけないでしょ」
「なんにもないの」
「色々あるけど色々ありすぎて話したくないの間違いじゃなくて?」

黒尾の言葉は的を得ていて、なまえは余計、泣きたくなったし、実際ちょっと泣いていた。いつの間にこの男は大人になったんだろうか。ネクタイだってベーシックなのに上質で綺麗なカラーのものを買ってくるようになった。料理だって簡単なものなら手早く作ってくれる。ゴミの分別もよく知っているし、時事ネタにも詳しくて、自分が惨めになるばかりだった。私の方が大人でなくてはならないのに、私の方が早く生まれたのに、私の方が長く生きているのに、彼の方が大人で、自分ももっと大人にならなきゃと思うのに、嫉妬ばかりして、ずうっと、高校二年生みたいな恋愛ばかりしていて、女はそれが恥ずかしくて情けなくて仕方なくて。

「…なまえさん」
「やなの」
「やなの?」
「黒尾くんが、大人になるの、嫌」
「…うん」
「意味わかる?」
「あんまりわかんない」
「私ばっかり子どもで、悔しいの、」

なまえはぐすぐす鼻を鳴らし、黒尾はそう言われたところであまり意味がわからずキョトンとしてしまう。それなりに察しがいい方だと自負してはいるが、こればっかりは全然だ。黒尾は黒尾で、早く彼女のようにしっかりとした大人になりたいと、もがいているところだから。

「…俺もまだすげえ子どもだけどね」
「どこが」
「ずっとなまえさんに似合う大人の男になりたいなーって、大学の頃から思ったんだけど…」
「黒尾くんが勝手に、どんどん大人になるから」
「なるよそりゃ、なりてえんだもん」
「なんで」
「だからなまえさんに…なんつーか、こう…相応しいと言うか…ほら、そもそも俺、歳下でただでさえ頼りないじゃん?」
「私は黒尾くんのこと頼ってるよ」
「うん、いいじゃんそれで」
「だから黒尾くんも頼ってよ」
「頼ってるよ、不本意ではあるけど」
「頼ってないよ、仕事の愚痴ひとつこぼしてくれないじゃん」

なまえはまだ黒尾が大学に通っていた頃、仕事の文句をたくさんぶつけた。男はそういうのを聞くのが上手くて、ただただ同調して頷いてくれるものだから、なまえはつい、話してしまっていたのだ。だから彼が働き始めたら同じように聞いてやって背の高い彼の頭を撫でて「がんばったね、偉かったね」って言ってやりたかったのに、ツンとすました彼は1つも漏らしやしない。

「私、黒尾くんのこと散々サンドバッグにしたのに」
「またしてよ」
「私ばっかり、」
「さっきから私ばっかりって言うけどさ」
「だって、」
「いやだから、だってじゃなくてさ、いいじゃんそれで。この間まで学生だった頼りない俺でよければサンドバッグにしてやってくださいよ」

俺は早く大人になりたい、なまえさんに似合う大人の男に早くなりたいって、独り言のように、自分に言い聞かせるように黒尾は口を動かして、そして。

「んで、早く俺だけのものにしたいけど、まだそんな資格ないので」

もうちょっと待っててって、首を45度傾けて何故か可愛こぶる黒尾が可愛くて、それはなまえが大好きな黒尾くんで。

「DVD一緒に観ようよ」

なまえさんの淹れたコーヒー飲みながら観たいなと強請られて、女はキッチンに足を向ける。涙はソファに落ちる前に、黒尾が指で掬ってくれた。

「もうちょっとしか待たないよ」

絞られた細い声で女がそう言うので、黒尾はきゅうと肩を抱くのだ。触れ合った右肩と左肩がじゅうじゅう熱くて、離れられなくて。その熱に侵食された2人は再生ボタンを押す前に唇を重ねたので、その日は結局、三角マークのボタンは不要だったようで。

2018/03/29 title by 星昼