3月の後半、週の真ん中、祝日。私の仕事の休みに合わせて、彼は部屋にやってくる。いつもなら毎週金曜の夜、扉を開ければペカっと笑った彼がいて、5日の労働の疲労を抱えているというのに、私もヘラっと笑ってしまう。つられて、笑ってしまう。だから今回は火曜の夜にやって来て、一昨日ぶりだねって言って、いいの?と問うた。光太郎くんはポカンとして、なにが?と返してきた。それ以上は聞かなかった。
彼は、私と一緒にいて、幸福なのだろうか。
「おはよう」
「ん、」
「…お腹空いてる?」
この人は私の彼氏であって、もちろん好きだという感情を持ち合わせているので、ある程度贔屓しているところはあるが、それを差し引いたって、人気者という言葉がぴったりくる人だった。ヒカリゾクセイ、とても言えばいいのだろうか。おぎゃあと生まれた頃からピカピカのスポットライトをたっぷり浴びながら人生を進めている男。友達は男女問わず多いのだろう、メッセージアプリの友だち登録数が私の倍以上あることは聞かずともわかることだった。そんな彼が私に全部、合わせてくれるのだ。金曜の夜なんて大学の仲間と飲みに行ったり夜中までカラオケで騒いだりしないのだろうか。そう考えることも少なくなかった。
「うん、空いた」
元々部屋にあったシングルベッドが狭すぎてセミダブルを買ったが、ダブルの方が良かったのではないのだろうかとこの頃思う。光太郎くんは背が高くて、おまけに身体が大きい。私は社会人になってから少し体重が軽くなった。単純なことだった。年齢を重ねて食欲が衰退しているのと、ほとんど運動をしないせいで身体中の筋肉が細くなっているせいだ。おかげさまで全く体力もなくて、彼と交わるだけで全部吸い取られそうになるから、この頃、本気で怖くなる。でも、「ごめん、だいじょうぶ?」って泣きそうな顔で私の頬を撫でる光太郎くんが愛おしくて大丈夫だよと笑って言うのだ。その度に体力をつけなければならないと決意はするが、実行する力はない。春になったらジムに通うと心に決めていたが、もう春になっているのに何も行動に移せていない。
「何がいい?」
「俺、手伝う?」
「ううん、平気」
そうやって月がこちらに顔を出している間に数度交わって、昼前にだらりと起床する。大抵、私の方が先に目を覚ますわけだが、私はこの男のあどけない寝顔を見る度に胸がぎゅうぎゅう苦しくなる。あと一年大学に通う彼と、大学を卒業して“社会”でニ年生きた私。何も知らない友人たちは言う。たいした年の差じゃないと。そう慰められる度に、何とも表現しようのない気分になるのだ。全然違うのだ。それはこうやって同じ時間を共有すればするほど、感じる。でもまあ、そう自己嫌悪に陥ったところで、どうしようもないのだけれど。ただただ、光太郎くんのことが好きだから、どうにもならないのだけれど。
「なまえちゃん、最後いつ行った?」
光太郎くんは私が作ったものであればインスタントラーメンでもトースターにぶち込んだだけの少々焦げたトーストでも美味しい美味しいとむしゃむしゃ食べる。今日も冷蔵庫に取り残されていた三食入りの焼きそばを全て、フライパンに投げ入れ、ついでに生気を失いかけているモヤシと存在を忘れていたキャベツもおまけで炒め、数分で作って彼の皿にニ人前を盛り付ける。一食残しておいても仕方ないので、彼の胃袋に処分を依頼したのだ。料理というよりは作業に近い料理なのに、起きたばかりだというのに、彼は私の正面で顔をほころばせながら食事をする。
「…学生の頃、かな」
「ニ年くらい前?」
昼の情報番組では、この時期だからだろうか。きらきらと楽しげなテーマパークの特集がされていた。新しいアトラクションがオープンしたとか、パレードがリニューアルするとか、抹茶味のスウィーツが発売されるとか、浮かれきった内容で、何というか、とても、他人事のように感じた。
「もっと前かも、三年…とか?」
ニ人前あったはずの彼の分の焼きそばは、だいたい皿の上からいなくなっていた。私も食べるペースは遅くないはずだが、まだ三分の一は残っている。一緒に用意したフリーズドライの玉子スープはお湯を注いだだけであるが、それさえも彼は褒めてくれるのでリアクションに困った。褒めるならスープを製造している会社を讃えるべきだからだ。
「今度行こうよ」
「ん?」
「ここ」
「ここ?」
「なまえちゃん、こういうところ嫌い?」
「光太郎くん好きなの?」
「うん、楽しいじゃん」
そうだね、行きたいね。うわごとのような私の返事に、彼はとても、さぞかし不満そうだった。なまえちゃん、いつなら行ける?そう詰めてくるものだから、また言葉を探して私は黙り込む。テレビに映る芸能人たちは、楽しげな声を楽しげな表情で奏でていた。あまりいいBGMではなかった。車で1時間とかからない距離にある場所なのに、ひどく遠くに感じるのだ。なんとか毎日を消化している自分には、なんだかこう、異次元の様に感じる場所になった。そんなところに歳下の、この可愛い男と草臥れた自分とが一緒に行ってはしゃぐなんて、なんとなく、想像しにくいにもほどがあると思った。
「年度末だし、しばらくバタバタしてるから…新入社員もくるし、部署移動もあるし」
「あぁ、そっか、じゃあ夏頃には落ち着く?」
「…お友達と行けば?」
「え?」
「大学の友だちとか、高校の頃の子とか…ほら、春のパレード5月末までだってさ」
「でも俺、なまえちゃんと行きたいんだけど」
ごちそうさま、と手を合わせる。彼が立ち上がって、キッチンへ。なまえちゃんもお茶飲む?と問われた気がしたので返事をしたが、イエスと言ったのかノーと言ったのか、よくわからなかった。木兎くんはアクリルのコップを二つ手に持っていたので、イエスと答えたらしい。
「どうぞ」
「ありがと、」
「行かない?」
「…うん、」
「なまえちゃん?」
「いえで、」
「ん?」
「家で、光太郎くんと、こうしてる方がいい」
察していた。彼が学生でなくなったら、私から自然に離れていくだろうと。だから、最近は特に、奇跡みたいなものを感じていた。スマートフォンに彼からのメッセージが届くこと、約束の時間になると部屋にやってくること、私の作った食事を胃におさめること、キスしたり抱き合ったりすること。それは自分にとってはものすごく特別なことで、多分少しずつ萎んでいくことで。なのに彼はそれにたっぷり息を吹き込んで、まだ大丈夫、まだ大丈夫と何度も繰り返し、どこまでも大きく膨らませてくれる。
「ほんと?」
「うん」
「俺、ちょっと家来すぎかなって思ってた」
「うん、毎週末よく来るなぁとは思ってるけど」
「やっぱり?」
「でも、嬉しいよ」
「え?」
「光太郎くんが来てくれると、安心する」
「安心」
「うん、ほら、来ないかもしれないでしょ?」
「来るよ」
「それはわかんないじゃん」
情報番組は次の特集へと移っていて、楽々キッチングッズをフォーカスしていたが全くと言っていいほど耳に入っていなかった。光太郎くんとの会話はテンポが面白い。基本的に小学生と話しているような気分に陥るのだが、たまに、急に、すうっと大人になるので、びっくりしてしまう。こんなこと言うんだって、驚かされる。
「友だちと遊んだりしないの?」
「遊んでるよ、なまえちゃんと会えない時に」
「ふーん」
「…男ばっかりだよ?」
「聞いてないけど」
「不服そうだったから」
「不服そうだった?」
私も皿の上を綺麗にして、ごちそうさまでしたと呟き、立つ。洗い物するよ?と彼が駆け寄って来るのは、とても可愛い。返事を待たずに彼はカチャガチャ皿を洗う。私は、ふたりぶんのコーヒーを淹れる。
「なまえちゃん」
「ん?」
「妬いた?」
「…なんで、」
「なんで?」
「なんで妬くの」
「俺、妬いてばっかだから」
「光太郎くん妬くの?」
「妬くよー、だって俺…ほら、魅力ないでしょ?学生だし」
「ずっと学生でいてほしいくらいだよ」
「留年しろってこと?」
「違う、社会人になったら光太郎くん、遠くに行っちゃいそうだから」
言うつもりはなかったのに、つるりと言葉が吐き出されて、あっまずいと思った時には彼は唖然としてこちらを見ていた。皿洗いは終わったようだった。
「遠く?行かないよ?」
「え?」
「来週も再来週も、俺、この部屋来るよ?」
「…来るの?大学卒業しても?」
「来るよ、社会人になってから…は、…社会人になったらちょっと広めの部屋借りて、そこでなまえちゃんと住みたいけど」
その前にとりあえず今週の金曜に来るけど。
来すぎ?と彼が困った子どもの様な表情で私に聞くので、待ってるよと言ってやる。光太郎くんはペカッと笑って、私もヘラっと笑った。
2018/03/26