助けていただいたお礼に、なんて。日本昔ばなしじゃあるまいし、なんだかしっくりこなかったけれど。昼間、咄嗟にそう言ってしまって後悔はしたが、その提案を快く承諾してくれた向かいに座る上司は、どう考えてもすごく、魅力的だった。オフィスでももちろん魅力的だったが、こうやって2人きりになると、痛感する。私って岩泉主任が好きなんだなぁと。これがどの類の「好き」なのかははっきりとわからないが、確実に好きだった。大好きだった。
「えぇ、それ、わたし聞いてないですよお」
開いた口が塞がらないというのは、まさに、多分、この状況で。出社してすぐに、言った。14時からの会議の資料を人数分コピーしてホチキスで留めておいてくださいと、自分よりも2年後に入ってきたこの女にそう言った。はーい、と「は?面倒臭いんだけどそんな地味な仕事。自分でやれば?」という気持ちが前面に出た返事だった。気の抜けた炭酸飲料みたいな、やる気のないそれは確かに彼女の声で、こちらの耳に届いたはずなのに。
「みょうじさん、そういうことはもっと早く言ってくださいよ。困ります、急に」
いやいや、急などではないし困るのはこちらだ。貴方の仕事に対するモチベーションの低さと能率の悪さには一目置いている私だ。小学生でもできるその作業は私なら1時間で終わるし、この甘ったれた声ばかり出す女でも1時間半あれば終わると、そう見積もっていた。部数は多いが、今一度言う。会議の資料のコピーをとって、それの角をパチンと、ホチキスで留めるだけの仕事だ。たったそれだけ。それだけの仕事なのに、なんで。
「…私、出社した時に言いませんでしたか?14時から会議があるから、それに間に合うようにって、」
「だから、聞いてないですってば」
あれあれ、私、2年先輩だよね?「聞いてないですってば」って…そんな感じ?いやそこは普通「申し訳ございません、そうですよね、朝お伝えいただきましたよね」みたいにさ、言うもんじゃないの?ギラギラ光っているアイシャドウと下睫毛にたっぷり乗せられたマスカラで囲まれた彼女の瞳の奥が完全に私をバカにしていて、こんな後輩を持った自分に同情さえした。あぁ、かわいそうだなぁ私。彼女がやらなかった仕事のせいで叱られるのは何回目だろうか。数えたら辞表を書かずにはいられないから数えたりしないけれども、ちょっとこれはないよね。オフィスの空気があからさまに悪くて、あぁいけないと、そう思う。今は彼女に腹を立てている場合ではないのだ。どうにかしなければならないのだ、14時までに、会議の資料を。今から間に合う方法なんて何世紀になったって見当たらないだろう、いや、22世紀になったらどうにかなっているのだろうか。そうしたらその時代に生まれ育ちたかったと切に思う。そうですね、私がうまく伝えられていなかったんですね申し訳ございませんでしたと、そう言って泣き寝入りしようと思っていたところに口を挟む彼。彼女とは全く異なる意味で、一目置いている、彼。
「言ってたよ」
岩泉主任は、とても仕事のできる人だった。スーツもシャツもネクタイも、いつだってオーソドックスな、ありふれたカラーばかりなのに、体格のせいかとてもお洒落に、格好良く見える。主任、というポジションに就くにはまだ若く、私より3つほど歳上だろうか。絵に描いたような「いい上司」だ。些細なことでも部下にお礼を言うし、叱るときは叱って褒めるときはたっぷり褒めてくれる。今時珍しく真面目な雰囲気の漂う人。古風な、というか…女子社員の間で彼の話をした時の合言葉は「旦那さんにするなら岩泉主任」というフレーズ。そんな人が、抑揚もなく、さらりと流すようにそう言った。みょうじさん、指示出してたよって、そう言った。
「朝イチで伝えてたろ、もう忘れた?」
彼の問いかけは、いつもよりも少し、乾いた声だった。彼女も少し怯んで、でも、まだ主張を曲げたりはしなくて。
「えっ、忘れたというか、言われてないですよ」
「いやいや、言ってたって。俺も聞いてたし」
間髪入れずに、呆れることも怒鳴ることもせずそう言って、きょろりとこちらに視線。名前を呼ばれる前に身体がぴくりと、反応してしまう。
「みょうじさん」
「は、い」
「何人くらいでやれば15分で終わる?」
「…5人、いれば」
「これから会議、15分遅らせてもらえるように頼んでくるから」
「え?」
そこから岩泉主任は社員数人に声をかける、悪いけど15分手伝ってって、そう言って謝ってありがとうってお礼を言って、あの女はこの女の「聞いてないですよお」を聞いた私よりもぽかんとして。
「みょうじさん、指示出して」
「はい、あの、申し訳ないです、ありがとうございます」
「いや、俺も気付かなくて悪かった」
よろしく、って言って彼は部屋から出て行く。椅子に掛けてあったジャケットをばさりと羽織って、長い足をリズムよく動かして、行ってしまう。背中をずっと、見ていたかったがホチキスでパチンパチンとA4用紙の隅を留めてやらねばならぬので、それは叶わない欲望だった。
「お疲れ」
「お疲れ様です、」
ビールジョッキがガシャン、とぶつかる。誘ったのは私だったのかもしれないが、でも、そんな空気だったわけだ。結局会議は15分きっかり遅れて始まったが、たいした問題にはならなかったので、岩泉主任が上手く言いくるめてくださったんだなぁと感心していたわけだ。彼の直属の部下が言う。主任に何かお礼しなきゃですねと、そんな雰囲気のことを口走った。
「いや、いいって」
「えぇ、いいじゃないですか。飯行きましょうよ、飯」
「お前らとなんか毎週末行ってんだろ、飽きたわ」
「ひどいなぁ、お前らと飲んでる時が一番楽しいって言ってるじゃないですか」
「言ってねえし」
「じゃあほら、みょうじさんと飯でも行ってくださいよ、それならどうですか?」
「えっ、いや、私なんかじゃ、」
「そうそう、みょうじさんと岩泉主任のおかげですからね」
「いや、あの」
「…後輩の女の子困らすんじゃねえよ」
「いいな〜みょうじさん、岩泉主任と2人で食事だなんて」
「俺たちもご一緒したいな〜」
「あぁ、もう、うるせえな。仕事戻れよ」
「みょうじさんも岩泉主任と飯行きたいでしょ?」
「え、あの、は、はい、お礼したいです、でも、」
「ほら!行きたいんですって、連れてってあげてくださいよ、あんなに頑張ってたんですから」
「あの、話の趣旨が、」
「あぁ、わかったわかった。わかったから仕事戻れ」
はーい、と緩い返事。これで終わると思ってたのに、彼は私にポソリと言う。終わったらエントランスで、と。返事をしたのかしていないのか覚えていないが、言われた通りに、向かって、探した。一応、口紅を塗り直して、軽めの香水を纏わせて、少々よれてしまったアイラインを修正して、彼を見つけたら目が合って、岩泉主任が右手を挙げた。私はぺこぺこ、頭を下げていた気がするが、あまり覚えていない。お疲れ、と言われて苦手なものがないか問われてその後に「まじで嫌じゃない?」って、何回か聞かれた。身体中の勇気を掻き集めて「嫌じゃないです、寧ろ嬉しいです」と言ったら主任は困ったように「なんだそれ」と独り言のように言って軽やかに笑った。店名だけは知っている、駅の近くの洒落た店。よく来るんですか?と彼の背中に声を飛ばせば振り返って答えてくれる。うん、たまにねって、いつもと同じ主任の声なのに、穏やかで軽やかで、一瞬交わった視線がピリピリする。
「いつもあぁなの?」
「はい?」
「みょうじさんのとこ」
何を話すんだろう、2人きりで。そう思っていたけれども意外と、話題はあった。主に、仕事のことで。入店してから一時間程経過しただろうか。ほんのり酔っ払ってからも、岩泉主任は同僚たちの文句ひとつ零さなくて、なんだかもう、悔しいくらいだ。今日の核の部分に彼が触れる。
「いつも…とは言わないですけど、ちょこちょこありますね。今回みたいなことは」
「よくカバーしてんね」
「…私が、教えるのが下手なので」
「どこが」
「え?」
「下手じゃねえだろ」
「いや、あの」
「あぁ、ごめん。そうじゃなくて」
主任はここに来てからずっと、言葉尻が優しかったりちょっと強かったり、ふわふわ、安定しない感じがあった。基本的にはまるい、なめらかな言葉で話してくれるのだが、時折それが乱れて。ピシャリとした音に怯みそうになる。元々この状況にひどく緊張している、という事実が作用しているのだろうけれど。そんなにもどかしそうな顔で黙りこまないでよ。最初にオーダーした枝豆や豆腐サラダを平らげ、その後運ばれてきた出し巻き卵とお造りに彼は手をつけずにアルコールばかりを流し込む。食べないんですか?と、ちょっと不満げな声で聞いてしまって、主任は曖昧な返事しかしなくて。
「主任、私に気遣ってます?」
「え?」
私も気が大きくなり始めていた。目が泳いでいる彼に追い打ちをかける。脂が乗った鯛は、じわっと甘くて、独り言で美味しいと、そう呟いてしまう。
「遣ってますよね?」
「…多少ね」
「なんか、全然、私、大丈夫なんで」
「何が」
「岩泉主任の、そういう感じ、私、平気ですよ」
「そういう感じってなんだよ」
「今みたいな感じです、そんな、なんて言うか…女の子扱い?しなくても大丈夫なので」
あまりピンときていなさそうだった。先程から…というか、以前から気になっていたことだが、彼は女性社員に、異様に優しいのだ。割れ物でも扱うかのように、優しく、そっと接する。宅急便の荷物を受け取ろうとしたらダンボールはすぐに彼の手に吸い込まれていくし、年末にある飲み会の帰り際には私なんかの終電の時間を心配してくれる。私はどちらかと言うと、彼とフランクに話せる立場になりたかった。昼、彼をほんのりおちょくるかのように、冗談を交えながら話していた彼らのような位置につきたい。気軽に話したいし気軽に食事に行ける仲になりたい。それを「すき」という感情をなるべく抜き取って話した。彼を慕う後輩。そんな風に映るように話していると、彼がそれを遮る。
「いや、あのさ」
「はい」
「女の子だから優しい訳じゃねえし」
「…誰にでも優しいってことですか、それはわかってますけど」
「そうじゃなくて」
「なんですか」
そう聞いても彼は答えてくれなくて、モヤモヤとした感情が募っていく。そうじゃないなら、なんだろう。ちょっと考えて、安易に思いついた言葉を、ちょっと調子に乗って言ってみる。ふざけた感じで、おちゃらけて。
「え、もしかして私だからですか」
なーんてね、って。そう言うつもりだったのに。彼がまだ黙っていて、なんだか少し面倒臭そうで、恥ずかしそうで、ぶわっと、感情が忙しなく湧き上がる。なになに、待ってだって、そんなはずないじゃない?私が勝手に憧れているだけで、岩泉主任からすれば私なんて、たくさんいる職場の後輩の1人なわけで。
「え?」
沈黙に耐えきれなかった私から漏れ出た間抜けな声に彼はハッとしたようで、あぁそう、そうだねって、己を落ち着かせようと、ぶつぶつ呟いて、その後、瞳をこちらに向けて。
「みょうじさんだからだね」
「なんで」
「ん?」
「何でですか」
何でって、と。くくく、と可笑しそうに笑った彼が私は可笑しくて。いま、笑うところ?心臓が騒がしい。口の中はカラカラだし、喉の奥が焼けるような感じ。ちょっと困っていたはずの彼は、すっかり意地の悪い顔になった。いやらしく微笑みながら、唇を釣り上げている。
「何でだと思う?」
「…仕事できないから?」
「できんだろ」
「なんかこう…ほっとけないから」
「あぁ、うん、まぁ、そうだね。それもあるし…つーか、」
もうわかんだろ、って。
そう吐き捨てるように言って、三分の一くらい残っていたビールを飲み干して、ようやく料理を口に運ぶ。生もう1つ、なんて言ってさ、自分だけ清々しい顔してますけど、ねぇちょっと、ちゃんと言ってくださいよってゴネた私を見て、うるせえなって笑っていた。
2018/06/24 終電前に答え合わせ