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腹が立っていた。
喧しい音を立てながら機械的に、リズム良く排出される印刷物をじぃと眺めながら、一連の流れを振り返るなまえは、久しぶりにカチンときていた。
元々そんなに気が長い訳でもないが、仕事中にここまで苛立つことはなかった。
例えば運転中や、コンビニのレジに割り込みされた時、映画館で自分の座席を後ろの人間に蹴られた時は多少気が立ったりはするが、ほんの一時的なものですぐにそれは消え去る。
なのに今は、じわじわと、怒りがこみ上げていた。怒りという程のものではない。所謂「ムカつく」という感情が湧きあがっていた。

ただ、さして重要な内容ではないのだ。職場の内々で、小さなミスがあり、なまえは上司に指示を仰いだ。
上司と言ってもなまえと年齢は近くほとんど変わらない。社歴が幾らか長いので敬語で会話はするものの、その会話の内容は大抵がフランクなものだ。関係だって決して悪くない。

「おぉ、おつかれ」

なまえは、物事をハッキリと白黒付けたいタイプだ。だから、その年の近い上司に指示を仰いだにも関わらず、言葉を濁し、明確な返事をよこさずー…足踏みをするばかりで仕事が思うように進まないことに腹を立てた。普段、さして時間に追われることがないので、それも苛立ちを加速させる要因の1つだったとは思う。
なまえは他人の感情を汲み取るのが比較的上手い。彼女はきっと、「部長に報告をし、その後、報告書を作成してください」と言いたいんだろうが、まぁ若干その行動は面倒であるし、誰がミスをしたか明確にわからない仕事なので泥を被ることになる。
結局はなまえがこの足踏みに耐えられなくなり、「じゃあ、部長に報告したらいいんですかね?」と、彼女が切り出せなかった内容を口にしー、まぁ、つまり、報告書作成に立候補し、部長に謝罪を入れたわけだ。

「お疲れ様です」

自分の声のトーンが、声の大きさが、思っていたものと違って自分で自分にイラっとした。くよくよだらだら悩んだって仕方ない。別にいいじゃないか、そもそも、仕事が終わらないのは昨日の自分や一昨日の自分のせいな訳で、誰かが悪いわけじゃない。そう考えようとするが、中々脳を切り替えることができないみたいだ。

「あれ?今日早番じゃないっけ」
「そうなんですけど、」
「もう18時過ぎてるよ」
「仕事、終わらなくて」

声をかけてきたのは年齢も社歴もある程度離れた松川だった。平均よりもずっと高い身長と、なんだか上手くつかめない飄々とした雰囲気。社内でもよく仕事ができると、周りからは一目置かれているが、本人はそんなことはほとんど気にしないようで、マイペースに仕事をしている。

「あらー、そうなの。大変ねぇ、金曜なのに」

1人、狭いコピー室で作業をしていた為か、松川に言葉を掛けられてもなまえの頭の中は先ほどの苛立ちがぐるぐるとまわり、離れていかない。松川は他人事だからか、なんとも呑気な声色で、なんとも適当になまえに話しかける。

「どんぐらいで終わんの、それ」
「…どうでしょう、多分、30分くらいですかね」
「なんかあった?」
「え?」

松川はひょいと、なまえの顔を覗き込むとなんの脈略もなくそう問う。会話の流れなんて気にしていないようだった。

「なにか、あった?」

声が聞き取れなかった訳じゃない。松川の発言に驚いたから聞き返したのだ、となまえは思っていたが、声に出すことはしなかった。何でわかるのだろうか。何で、わかったとして、わざわざ問うのだろうか。普段そんなに会話が多い訳ではないのに。そんなこと考えたってわからないのだけれど。

「…久々に、こう、」
「ん?」
「なんか、イラっとして、」
「うん」

松川は、途切れ途切れななまえの話をただただ相槌を打って最後まで傾聴した。そして彼女の瞳をバチリと捉えて。

「偉いね」

偉い偉い、と繰り返し、ポン、と頭に大きな掌を乗せて。

「偉いね、みょうじ」

いつの間にか来週の会議で使用する書類の印刷が終わっていた。松川は紙の束をひょいと持ち上げてしまう。なまえは松川に触れられたことにどきりとし、声を出すことが困難な状態に陥っていた。彼が黙って彼女の話を聞いてくれたせいか、もう脳内にあの一連の苛立ちはない。ただ目の前の男のことしか考えられなくなっているから、女というのは都合のいい生き物である。

「偉いから手伝ってあげる」
「…え?」
「がんばったからお駄賃。帰りアイス奢ってやる、はよ帰るぞ」

に、と笑う松川に、またどきりとして、何だかバカみたいだ、と自分で自分を嘲笑った。せっかくだから今日は彼に甘えてしまおうと、そう目論むのだった。

2016/09/03 ご機嫌ホイホイ