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「あら」

もしかしたら、と思ってはいた。ひょっとして、と期待していて、期待通りになったのに、なまえは案の定、大好きな上司から突然、声をかけられたところで、言葉が出せなかった。昼休み、毎夜細々と拵えている、インスタグラムになんて載せられやしない彩の悪い地味な弁当を胃におさめたものの、異常と言われるこの暑さだ。何か冷たいものを胃に入れたくて、財布だけをバッグから抜き取り、オフィスのすぐ隣にあるコンビニエンスストアへ。一瞬外に出ただけなのに、汗がぶわりと吹き出すので心底うんざりした。どうなっているんだろうか、この頃のこの暑さは。熱風でも浴びせられているのではないのだろうかと思わずにはいられない。

「すげえ暑いね」
「そう、ですね」
「久しぶり、元気にしてる?」
「はい、げんき、です」

松川はこの暑さの中だというのに、ひやりと涼しげな瞳でなまえを見つめた。店の前の喫煙所でいっぽん、嗜んでいる。このしっとりとした男は、冬の終わり頃まで、なまえと同じ部署で働いており、つまりは直属の上司だ。実際は今すぐにでも店内に入って25度くらいに設定してある冷房の恩恵にあやかりたいのに、動きたくないと、脳がそう足に信号を出す。もう幾つか、彼と言葉を交わしたいと、そう強請るのだ。

「昼飯まだなの?」
「いえ、食べたんですけど、アイス食べたくて」
「あ〜、いいね、俺も食おうかな」

ジュ、と。まだ吸い始める前とほとんど長さの変わっていないそれを、灰皿に押し付け火を消してしまう。松川はそのまま、特に何も言わずに店内へ。なまえもそれを追うように、ようやく足を動かす。というか、この、目の前の色男の背中に惹きつけられるのだから仕方ない。男は女を見て言う、どれにする?って、アイスクリームなんかよりももっと甘い声で聞く。

「…松川さん、甘いもの食べるんですか?」
「うん、たまーに」
「意外です」
「あはは、よく言われる」

どうしようか。明日は給料日。ちょっといいものが食べたいと思っていたので、ケースの隅に置いてある、周りよりも少しだけ値段の高いものに視線をやる。定番のキャラメルのフレーバーか、最近発売された限定の甘夏か、非常に悩ましい選択だ。隣にいる彼はもう決まっているのだろうか。待たせてはいけないと思いー…と言うか、なぜ今こうやって一緒にコンビニエンスストアに入ってアイスケースの前で並んでいるのかを少々疑問に思いながら、この状況があまり理解できずにいた。果たして彼は自分を待ってくれているのだろうか、はたまたあぁ俺もアイス食いたいなどれにしようかな的なテンションで、隣に私がいることなどさして気にしちゃいないのだろうか。いやいや、そんなことを考えている場合ではない。気分はキャラメルを求めていたが、なまえも女である。限定、という言葉にめっぽう弱いので甘夏を手に取り、アイスケースから松川へと視線を移動させる。

「松川さん、お決まりですか?」
「うん、お決まり」

男は彼女が選択しなかった方を大きな手で掴み、そのまま会計へ。松川がレジ付近のミント・タブレットを物色していたので女は先に済ませてしまおうと、店員にアイスクリームをひとつ、差し出したすぐ後だ。

「あ、お姉さんこれも一緒に。支払い電子マネーでお願いします」
「え、っ…いや、あの、別で」
「一緒で大丈夫です、あと21番一箱」
「はい、4点で1322円です」

なまえは、自分の財布から取り出した小銭を松川に無理やり持たせようとするが、彼がそんなものを受け取るわけもなく。いいって、と何度か言ったにも関わらず引かない彼女を相変わらずだなぁと、そんな風に思ってふふふと笑って。

「久しぶりに会えて嬉しかったから、奢らせてよ」

そう言って、黙らせる。ようやく百円玉三枚を自らの拳にとどめた女に追い打ちを。嘘じゃないからね、と。

「元気そうで安心した、ずっと気になってたから」

なまえはぶわっと、思い出していた。この会社にやってきて3年、仕事にも働くことにもだいたい慣れた。数人の友人からは結婚式の招待状が届き、また別の友人は転職をしたりして、はたまた海外に行っている子なんかもいた。そんな中で自分は決められた時間に出社し、定時で帰宅、家でバラエティ番組を流しながら夕食という名の残り物を胃におさめているわけで、これって、この先どうなっていくのだろうかと。そんな途轍もなくぼんやりとした不安に襲われる。周りに相談したって「まだ若いじゃん、やりたいことやりたいようにやりなよ」みたいな、だからそのやりたいことがないんだってばって、そう言い返したくなるようなフォローしかしてもらえなかったのに、この男は違った。春の訪れと共に別部署に異動が決まっている彼の送別会…のようなもので、酔った勢いもあり、女は自分のぐちゃぐちゃとした感情を吐き出した。言葉はあまり、選ばなかった。いや、選べなかったのだ。酔っ払っていたのと、ずうっと遠くから見つめていた男の瞳があまりにも魅力的で、目を見て話すなんて、そんなの、絶対に、できなかった。

「やりたいことってないよねえ」
「…松川さんでも、ですか」
「うん、ないねえ。でも俺、みょうじさんと仕事するの好きよ」
「え?」
「気が利くし、仕事もレスポンスも早くて丁寧だし、がんばってるなぁって感じで」
「そんな、」
「いやいや、本当に。だから残念、春から一緒に仕事できなくなっちゃうから」

やりたいことなんて無理に見つけなくてもいいんじゃないの?と。男は終いにそう話を戻して、そして。

「また一緒に仕事したいからさ、気が向いたら俺が今度配属になる部署に異動届出してよ。気が向いたらでいいから」

あたたかい、とろりとした液体が体内を巡っていくのがよくわかった。松川の言葉のせいだ。単純なことだった。女は彼にそう、幾つか言葉を貰っただけで、思い悩んでいたことなんてもうすっかり、どうでもよくなったし、それからたまに、気圧の関係で落ち込んだり沈み込んだりしてもこの、松川の言葉を脳内で再生するだけで穏やかになれるものだった。男が新しく配属になったのは少し、専門的な知識が必要なところで、以前から若干、興味はあったが自分にはハードルが高いと諦めていた部分だったのだ。それを松川がいなくなってからこっそりひっそり、勉強し始めていることはなまえ本人以外、誰も知らない。だからもちろん、その行為に対して称賛の言葉も貰えないが、いいのだ。私が勝手に嬉しいから、いいのだ。だから今も、彼には言ってやらないのだ。

「はい、そこで食べてく?デスク戻る?」

店内のイートインスペースを指差して、松川にそう問われてパッと、こちらに引き戻される。慌てて声を出すが、上手くいかなくてお礼の言葉が掠れてしまう。

「ありがとうございます、すみません本当…ごちそうさまです」
「どういたしまして」
「あの、ご一緒してもいいですか」
「もちろん」

好きというか、そういうことじゃなくて。だって、目の前にいるのはあの、松川一静なのだ。女の社員が皆、彼の前では無意識に女ぶってしまう、そういう魅力を持ち合わせた彼だ。会社付近のコンビニエンスストアで、こんな風にふたりきりでアイスクリームを食べているところなんて見られてしまったら…と思うと、明日から心中穏やかではないが、そんなことは一旦どうでもよくなっていた。旨いね、と彼が漏らすので美味しいですねと教科書通りの返答をする。

「今もさ、みょうじさんが昼飯食べてなかったらランチ誘おうと思ったんだけど」
「はい?」
「近くにさ、できたんだよね。ちょっと小洒落た定食屋みたいな…インスタ映えってやつ?皿とか可愛くてさ」
「あ、知ってます。有名ですよね」
「知ってる?今度一緒に行こうよ」
「…あの、松川さん」
「ん?なあに?」
「あの、なんで…私にそんな…、良くして下さるんですか」
「え?それ聞く?」
「え?」

コンビニで告白するのはちょっとなぁ、って。男はそう言ってケラリと笑って、一瞬俯いた時に下を向く睫毛で影ができた瞳は、あっという間に女を捉え、話題をそらすかのように、子どものような提案。

「ねぇ、そっち一口ちょうだい?」
「あの、」
「先、こっち食べる?」

差し出されたそれに口を付けることなんて普段なら絶対できないのに。できないのに、しないといけないような気もして、松川の言葉の意味で確信が持てないほど低脳でもなくて、でもそんなことって起こり得るわけがないような気がして。チラチラと彼の様子を伺ってみるが、手が引っ込むことはなく。いいんですか?いいんですよと、ふざけているとしか思えないやりとりの末に控えめに齧ったそれは、いつも通りの原材料で製造されているはずなのに、甘くて、甘くて甘くて。こんなに甘いものが世の中に存在するのかと疑いたくなるくらいに甘い。

「松川さん、」

名を呼んで差し出したあまずっぱいフレーバーは、自らの手のひらの熱でどろっと溶け出してしまうのではないだろうか。そんな風に思ったのも束の間。なまえの手を男は自分の手のひらで包み、少しばかり自身の方に引き寄せてひとくち。こっちも旨いねと、そう呑気に、楽しそうに笑っていた。

2018/08/12 title by 星食