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かれこれ30分くらい経ったろうか。キィン、と響くのは白球と金属バットがぶつかり合う音。あとは蝉の鳴き声と、受付をしているご老人が聞いているラジオが、私の耳に届く。古びたラジカセからは、もうそんなことは誰もが知っているので今更、言うまでもないのだが、それくらいしか伝えることがないのだろう。明日も暑くなるでしょうと、ひんやりした声でおきまりの台詞をアナウンサーがほざいていた。

「いわちゃん、ちょっと休めば?」

バッターボックスに立つ彼に聞こえるように、ちょっとボリュームを上げた声で呼びかける。返事はなかったが一瞬身体と顔がこちらに向いたので、聞こえてはいるのだろう。異常気象だと言われるこの夏、こんなにも古臭いバッティングセンターに突拍子もなく私を誘う元彼氏が何を考えているのか、元彼女の私はさっぱりわからなかった。昨今のバッティングセンターって、大抵は屋根の高い屋内に機械が設置されてそこそこ適切な温度が保たれていて…というのが定番だと思うのだが、彼が私を連れてきたここは屋根こそあるものの屋外に設備があり、外との気温はほとんど変わらなかった。ベンチに腰掛け、一心不乱にバットを振る彼を眺めているだけの私でさえもじっとりと汗ばんでいるので、こんな気温の中、身体を動かしているいわちゃんは一体全体何が楽しくてそうしているのだろうか。頭が狂っているとしか思えない。

「ハンカチ使う?」

キィ、と扉が開く。あっちい、と独り言を漏らした彼が私の隣に座ったが、間にもう1人座れそうな距離感が可笑しかった。あぁ、これが今の私たちの関係なのだ。恋人でない状態でのいわちゃんとふたりきりは、結構気まずかった。

「はい」

高校を卒業してから社会人になってしばらくまで、私といわちゃんは彼氏と彼女だった。もうすぐで、そろそろ五年が経過するところだったと思う。

「いい」
「はい」
「…わりぃ」
「いいえ」

彼の額で汗がキラキラ、光を放っていた。半ば無理やりハンカチを渡す。彼はそれで遠慮がちに汗を拭うが、拭っても拭っても噴き出してくるそれを見てまた思う。この人はいったい、何がしたいんだろうか。五年くらい付き合っていたというのに、全くわからなくて、悲しいような虚しいような。

「あっちいな」
「当たり前じゃん、あれだけやってれば」

別れを切り出したのは私で、同意したのはいわちゃんだった。私はまさに、魔が差したという感じで「別れよう」と言ったが、それは「最近会えなくて寂しかった」的な意味合いだった。当時の私は、別れようとそう言えば、いわちゃんが甘ったるい言葉を吐いて抱き締めてくれるとでも思っていたのだろう。実際は抱き締めてくれるどころか、指一本触れ合うこともなく、私たちは恋人でなくなった。いわちゃんが、砂糖をたっぷり振りかけた言葉ではなく「わかった」という同意の言葉をくれたからだ。

「なんかあったの?」
「ん?」

それから私たちは、何もなかった。何もないってのはどういう意味かと言うと、本当に何もなくて、連絡を取り合うことも、もちろん顔を合わせることもなく、1年くらいが過ぎていた。別れを切り出したのがしとしと雨が落ちる六月、梅雨の時期だったことを思い出す。

「…急だったから」

なんの前触れもなかったのだ。急に、スマートフォンのディスプレイに通知が浮かんで、岩泉一と、彼からのメッセージが届いていることを知らせた。短く、つまらない文章だった。久しぶり、と、これからバッティングセンター行かねえ?と。その二言だけ。意味が全く、わからなかった。散々、その言葉とにらめっこして、たくさんたくさん考えて、私もメッセージを送った。メッセージの意味もろくにわかっていなかったが、いいよ、と。久しぶりだね、元気にしてる?なんで連絡くれたの?なんでバッティングセンターなの?いつ行くの、今から?聞きたいことはたくさんあったが、いいよという三文字。それだけを送った。あまりにも殺風景だったので絵文字で彩りを添えるか迷ったが、膨大なそれからひとつ選び出すのは途方もなく大変な作業だと察したので、最後はヤケクソで送信した。

「あぁ…そうだよな、ごめん」

何かあったのか、という問いに彼は反応しないまま、立ち上がって自動販売機の前へ。しばらく会っていなかったが、相変わらずいわちゃんの背中は大きくて広くて、とても私の好みだった。加えて、膝小僧が見える丈のショートパンツから覗く彼の足首が、キュッと締まっていて綺麗で、これもすごく、好きだった。こうやってじぃっと、彼を見ていられるから、この後ろ姿には恋い焦がれたものだ。面と向き合って視線を送れば、「あんま見んなや」とか「なにじっと見てんだよ」なんて叱られてばかりだったから、見つめていても叱られない後ろ姿が、大好きだった。後ろのポケットから財布を取り出し、小銭を突っ込む。なんか飲む?などと聞かれた覚えはないのに、ベンチで座っていただけの私にもスポーツドリンクが用意されていた。

「ありがと、」
「ん」
「いわちゃん、野球も上手なんだね」
「上手ってほどじゃねえだろ」
「よく来るの?」
「たまに」

ペットボトルの蓋が開けられず力を込めていると、彼が何も言わずに私の手から奪い取り、パキッと一瞬で開封してくれる。ありがとう、と言い終えると同時に冷たいそれが私の手の中に戻ってきた。この人の優しさは、冷たい。いわちゃんはぶっきらぼうに見えるけど、信じられないくらいに優しかった。誕生日とか、記念日とか、そういうの覚えていられないタイプだと思っていたのに忘れられたことなどなかったし、重い荷物は私に持たせてくれなかった。肩を並べて歩く時にはいつも車道側に立ち、体調を崩せば息を切らして私の部屋に来てくれた。私はいわちゃんの優しいところが大好きで、自分もそんな風になりたいと思っていたから、同じようなことをしたが、何をしたって、あまり喜んでくれなかった。社会人になりたての頃、いわちゃんからLINEの返事が数日なかったので、心配になって電話をかけたら繋がった彼の声がガラガラで、熱っぽくて。慌てて彼の部屋に行ったら「感染ったらどうすんだよ」と追い返されたこともあったくらい。その度に思った。私はいわちゃんが彼氏で、いわちゃんと付き合っていてすごく幸せだけれど、いわちゃんはどうなんだろう。私がどんなに寄り添いたいと思っても、彼はヒラリと身体をかわして触れさせてやくれない。もっと近くにいたいと思って糸を手繰り寄せたって、彼は私がいる場所と反対の方向へ進む。

「なぁ」
「ん?」
「もっかい、付き合いたい」

相変わらず蝉の鳴き声はうるさくて、暑さを一層際立たせていた。夕方、もうすぐ17時だというのに気温はほとんど下がっていなさそうだ。あの頃に抱えていたもやもやとした感情を思い出している時にそう提案されたものだから、とにかく驚いたし、もっと言えば意味があまり、わからなかった。

「え?」
「…聞こえてんだろ」
「なんで?」
「なんでって」

いわちゃんの額の汗はほとんど引いていた。赤いみみは、単純にこの暑さのせいなのか、それとも別の何かなのか、私にはわからなかったがいわちゃん本人に聞いたって答えてくれないことは明瞭だ。

「俺は、ずっと」

俺は、って言うけど、私だってそうだよ。いわちゃんがすっくと立ち上がり、私の部屋から出て行ったあの日からずっと。

「ずっと、変わってねぇから」

だからこんな、訳の分からない誘いでも何も言わずに付いてきている訳だ。こんなの、いわちゃんだからだ。彼と別れてから数人の男性と連絡を取ったりデートをしたりしたが、まだ、私は。

「好きだし、まだ」

いわちゃんが蓋を開けてくれたスポーツドリンクは、あっという間に汗をかいていた。びちょびちょのそれを、今すぐ口に含みたいくらいに、喉がカラカラだった。いわちゃんの口から発せられる、いわちゃんが絶対に言わないであろう言葉たちが、私が大好きないわちゃんの声で耳に届くから。これは本当にいわちゃんが声帯を震わせて発しているのだろうか。そう不思議に思って、ようやく彼の方を見る。いわちゃんは多分、私の視線に気付いているが、まだ真っ直ぐ、前を向いていた。

「まだっつーか…ずっと、あの頃から今までずっと」
「…いわちゃん、何も言わなかったじゃん」
「うん」
「別れたくないとかさ」
「そうだな」
「なんで?」
「…なまえがそうしたいなら、それがいいんじゃねえかと思って、ずっと…そう思わなきゃいけねえって、自分に言い聞かせてたんだけど」

いわちゃんはあまり、好きとか、ましてや愛してるとか、言ってくれなかった。言ってくれなかったけれど、わかっていた。私のこと好きなんだろうなって。なのに、あの日、あまりにもあっさりと私の提案を受けいれたものだから。あぁ私の勘違いなんだ、この人は誰にでも親切なんだって、そう思おうと、彼と恋人でなくなってからそう思い続けてきたのに。

「悪い、抑えらんなくて」
「いわちゃん」
「ん?」
「ごめんね、私、あのとき、」
「あの時?」

やっと、いわちゃんと目が合った。柔らかいその眼差しが、私には眩しすぎて。好きだった、じゃなくて、好きで。こんなにも好きなのに、あの頃も、今も、ずっと。視線が交わったって、いわちゃんが何を考えているのか、私はやっぱり、わからなかった。

「あの時って?」
「わかんないならいい、」
「は?よくねえだろ」
「すき」
「…え?」
「私もまだ、すき」

はらはらと、静かに落ちる涙を見ていわちゃんが言う。ハンカチ使う?って、さっき私が彼に渡したハンカチを差し出しながらフッと笑って、言う。

2018/07/30