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いっぽん吸ったら中に戻ってくるのに、今日は違った。松川は2本目に火をつけた。意味なんて全くないのだろうと思う。強いて言えば寒くなり始めた外の空気が思っていたよりも心地よかったからかもしれない。女の若い肌は熱くて、いや自分だってまだ二十代前半だから若いのだけれど、それとこれとは根本的に違った。その火照りを冷ますのに、10月の終わりの夜はものすごく、ちょうどよかったのだ。
セックスをするとギィギィと軋むやかましいベッドの上で、男の帰りを待っていたなまえはもう、我慢の限界で。素肌に半乾きのぶかぶかなメンズのパーカーを身に付け、ベランダ。擦り寄るように隣に座って、男は特に、何の反応もなくて。

「いっぽんちょうだい?」

恋人になって、3ヶ月くらいだろうか。これから社会人になって初めての冬を迎える男と、まだ未成年な女。なまえは4つ年の離れた彼氏がいることに優越感みたいなものを覚えていた。同級生に話すと、とてもいいのだ。えぇ、まじで?すごくない?いいなぁ、社会人、お金あるし余裕もあるし免許も車もあるしって、そんな感じでほやほやされるのは、けっこういい気分だった。おじさんだよ、なんて半笑いで思ってもないことを口走り、「写真見せてよ」と言われれば待ってましたと嫌がるふりをしつつ見せてやるのだ。そうしたらまた盛り上がるから愉快で堪らない。松川は容姿もよかった。スタイルもセンスもよかったから、本当に、本当に自慢の彼氏だった。

「だめ」
「いいじゃん、いっぽんくらい」
「なまえちゃん、いまお幾つ?」

煙草はハタチからって法律があるのはご存知?と。男は女の瞳をぴったりと捉えてふふふと笑みを含みながら話す。なまえは松川のことも松川が煙草を吸う姿も大好きだったが、この煙草の匂いが嫌いだった。いや、苦手だったんだ。クラクラして鼻の奥がツンとして、苦しくなるから。だから匂いが染み付かないように、染み付いてもいいように、男の洋服を犠牲にしている。

「ケチ、松川さんだって未成年の頃から吸ってたでしょう?」
「吸うわけないでしょう、俺、こう見えてスポーツマンだったんだから」
「高校までじゃん」
「まぁそうですけど」
「ねぇ、いっぽんだけ」
「つーか、コレ、不味いよ」
「どれくらい不味いか知りたいの」
「なに、その訳わかんない好奇心」

愉快ななまえの真剣そうな反応が可笑しくて、楽しくて。松川は全く好みでないフレーバーの煙を吐き出しながら柔い声で言う。心から思っていることを、音にする。

「来年の誕生日に一箱プレゼントしてあげる」
「本当?」
「うん、本当」
「やった、約束ね?」

そう目を輝かせる女に、松川はキスをしてやるのだ。顔を歪めるなまえは子どもで、可愛かった。あぁまだ少女だなと、そんな感じがしてすごく好きだった。自分に釣り合うようにと背伸びしたファッション誌を読んだり、デパートで化粧品を買ったり、男を誘うために作られたような下着を着けている女の可愛げが、松川はとても気に入っていた。気に入っていたが、それからしばらくすると松川がなまえの部屋に来ることはなくなった。彼の匂いと大嫌いな煙草の匂いとお気に入りの柔軟剤の香りが染み付いたパーカーは処分した。ざくざく、胸が痛かったからだ。それからまたしばらくして、松川のことを忘れたくて適当な男と会ったり、食事をしたり、ホテルに行ったりしたが、あの頃みたいな、パチパチ弾けるような恋がうまれることはなかった。レールの上を定刻通りに走る恋愛は、乱されることがなく、調子が狂うこともなく、悪くはなかったが、その代わり全然、よくなかった。変わらない景色の変わらないベランダで、吸えるようになった煙草を箱からいっぽん。いつもと違うパッケージ。たまに、家の近くのコンビニで買ってしまうのだ。あの男が吸っていた銘柄。嘘つきの、あの男。

「…まっず、」

雑貨屋に売っているチープで可愛いアクセサリーみたいな、そんなものだと思っていた。別れを切り出したのはなまえだった。勢いだった。くだらない理由だったはずだ。男からのメールの返信が遅いとか、飲み会に行ったことを教えてくれなかったりとか。この春から働き出したなまえは、しみじみと思う。あの頃自分はどうしようもないクソガキだったし、松川は年齢よりも大人びていたと。だから実年齢よりもぐっと子どもな自分に苛立つことも多かったと思う。我儘を言って、散々困らせただろう。働いていれば連絡を返す時間がないことだってあるし、定期的に開催される飲み会情報をいちいち恋人に知らせるのだって面倒だ。だからそんなことで腹を立てていた自分は、相当、うざったかったと思う。
あとでぼんやり聞いた話だが、松川には高校の頃から憧れていた人がいたらしい。2つ年上の女だそうだ。その人と付き合えることになったとかどうだとか。お似合いだと思った。あの男には年上の、色っぽい、艶やかな女が隣で微笑んでいるのが、よく似合うと、そう思ったくらいだった。
今こうしてこのベランダで、あの煙草を吸いながら、思うのだ。いま出会ったら、なにか違うだろうか、と。そんな風に思わずには、いられないのだ。明日は休みなのに自分は1人で、ベランダで、好きだった男の煙草を無理をして吸っている。情けなかった。思い出ばかりがたっぷり蘇る。近くのパン屋はインスタ映えなんかしない素朴なラインナップばかりだったが、とても味がよかった。2人とも何もつけないのが1番うまいと、真っ白い食パンをコーヒーと一緒に楽しんだ。春になると桜がふわりと舞う公園は遊具がたっぷり置いてあって子どもの声が響き、ファンファーレのようで楽しかったのに、怪我をした子がいるとかなんとかで、味気ないさら地になった。あの男はそんなことも知らないんだろう。別れてからこの街に来ていないのだから。なんて、そんなことを考えて。冬のベランダはしんしんと冷える。早めに火を消して熱いシャワーで大嫌いな煙草の匂いともサヨナラして、なまえは朝を迎えた。どうでもいい朝だった。

「なまえ?」

化粧はしていない、マスクはしている。眉は…描いた。髪は梳かしたっけ?適当に選んだニットは毛玉が目立たないだろうか。自問自答ばかり。走り去った方が良かったのかもしれない。人気商品だというパンオショコラが買えて嬉しくなっていたところに、彼だ。数年前に別れたあの男だった。リードで繋がれているのは真っ黒いフレンチブルドッグで、大人しかった。ほどほどに不細工で、それがとても愛らしかった。

「なまえ、だよね?」
「…うん、ひさしぶり、」
「びっくりしたー、知らない人に声かけちゃったかと思ったじゃん。返事してよ」

もしかして俺が誰だかわかってない?と、そう問われたがそんな訳ないだろうとお互いに思っていたはずだ。なまえは松川を忘れられないし、松川はなまえが自分を忘れられないことくらい、わかっているし。

「よくわかったね」
「ん?」
「私だって、」
「うん、まあね」
「…動物、好きだっけ」
「綺麗になってたから、一瞬迷ったけど」

でもわかったよと、そう笑うと先ほどの質問に答える男はマイペースだった。友達の旅行中、預かっているんだとそう教えてくれるが、もうなまえはそんなこと、どうでもよくなっていて。

「なまえ、いまはこっちに住んでんの?」
「ううん、引っ越してない」
「へえ、まだあそこなんだ、いいとこだもんね」
「ねえ」
「ん?」
「松川さん、結婚とか、してるの?」
「なに急に、してないよ」
「彼女は?」
「…いないって言ったら?」
「ご飯、行きたいなって、」
「うん、いいよ」

女はぽかんとしていた。連絡先変わってない?松川はそう聞いて、自分のスマートフォンを確認して、なまえにワンコール。また登録しておいてねと微笑む男は、女が自分の連絡先を消していると思っていたが、ジーンズの後ろポケットにねじ込まれているなまえのスマートフォンのディスプレイにはしっかり、男の名前が表示されていた。酔った勢いで、何度もかけようかと思った番号。愛していた番号。ふと思い出してほとんど中身の減っていない長方形のそれを松川に押し付ける。あげる、とそう言って押し付ける。もう必要ないと思う。ちゃんと、大人になれているはずだから。

「うわ、煙草吸ってんの?やめなよ」
「…吸ってないの?」
「去年やめた、禁煙2年目突入」
「なんで、」
「なんでって…まぁ色々ありますよそりゃ」
「色々?」
「そう、色々」
「色々、」

憧れた女が吸っていたから、好きでもなんでもない煙草を真似して吸っていた弱い男は返答に困ってしまう。その女と結ばれたと思ったら焦がれていたものとは違って、すぐに距離をとったなんて可愛い年下の元彼女に言うことじゃない。

「それじゃ、また。連絡してね」
「ねぇ、」
「ん?」
「すぐ連絡してもいい?」
「うん、どうぞご自由に」

そんな声とゆるい笑顔が返ってきて、好きというそれも、まだ、あの頃のままで。

2018/01/23