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ちょっと、と拒否をされて、男はなんだよって、苛立って。玄関、佐久早は取り急ぎ、右手で照明のスイッチを探って小さな照明を灯した。女の顔を見る為だ。やっぱり冷えるね、とデートの途中で彼女の鎖骨を隠したマフラーを乱雑にほどいて、床に落とす。男の冷たい手が女のあたたかな首に触れて、そのひやりとした感覚に、なまえはびくんと、身体を強張らせて。チカチカとした電飾なんか、夜を曖昧に照らすだけで、何も満たしてくれなかった。こうしないと、いっぱいにならない。ただでさえ、時折しか顔を合わせないのだ。2人きりでいたい。その感情は確実に男の方が強くて、それを佐久早は、わかっていて。

「聖臣く、っ…や、」
「さっきしたいって言ったじゃん」

ムードとか、雰囲気とか。そんな調味料なくたって、自分はいつだってこの女が隣にいれば触れていたいと思うし唇だって重ねたい。そんなことわかりきっていて、でも彼女はそうじゃなくて。しっかりとスパイスが効いている方がお好みなようなので、笑うしかなくなってくる。男はもう、自分でもよくわからなかった。女に困っているわけじゃない。昔からそれなりにモテた。でもこんな風に思ったのは、なまえだけだから困窮している。そんな肩書きが存在するのであればまさに「運命の人」なわけであるが、なまえがそのカテゴリーに分類されないことくらい、考えなくてもわかることだ。歳上の彼女は春が来れば大学を卒業して、社会人になって、その会社にいる3つ歳上の先輩にふんわり優しくされたり仕事でミスをした時に慰めてもらったりしたら、自分をなるべく傷付けないように処分して、離れてしまうのだと。ネガティブでも考え過ぎでもない。大好きな、愛おしい女のことだ。佐久早はそんなに、馬鹿じゃない。そのくらい、ちょっと考えれば、簡単にわかってしまう。彼女は自分と付き合うことで“退屈で味気のない学生生活”に一品おかずを増やしているだけだ。たった、それだけの関係だ。

「待って、ここじゃ、」
「嫌?」
「っ…ん、んっ」

頬がよく、冷えていた。男の指が、手のひらが、たっぷり冷たくなった女の頬をとろっと撫でる。なまえは単純で、素直で、いい子だ。考えが足りないところはあるが、目の前のことをきちんと把握して楽しむ、そんな感じの女。佐久早のことを自慢の彼氏だと思っているし、言うまでもなく好きという感情を抱いていて、デートを待ち望んでいるのは確かである。今日だって先ほど解かれたアイボリーのマフラーを身につけるか、今頃自分の部屋のベッドでゆっくり眠っているダークグレーのグレンチェックにするか、散々迷った。女友達にも彼の話をよくするし、その度に「佐久早くんのこと本当好きだね〜」なんて呆れられたりもする。ただこうして時折、男が自分に覆いかぶさってくる時、なんとなくわからなくなるのだ。なまえが男から感じるのは、好きという、シンプルで混じり気のない感情じゃない。それはわかっているが、愛憎だとは理解できていないし、そんなもの佐久早自身も完璧には気付けていないし、どうしようもないのだけれど。

「さっきのもう一回言って」
「…え?」
「もうしたくない?」

佐久早だってもう、自分に嫌悪感しかなかった。こんなおどろおどろしい気持ちを女にぶつけたって意味なんてないし、もっと言えばなまえが気付いてしまうのではないかと、そういう心配もあった。そこまで根気強く悩むタイプの女ではないと、わかっている。彼女のことはよく理解しているつもりだし、でもつもりでしかないし。

「ね…っ、それ、やだ、」
「やだ?」
「聖臣くん、」
「ん?」

言ってよ、もう一回。
男は女の耳元でそうぼそぼそ言って、今度は自分の耳を女の唇に寄せる。なまえは佐久早がつけている香水が、大好きだった。こうして、密着しないとわからないくらいのほのかな香りだが、とても、好きだった。有名なブランドの有名なそれは、ありがちな香りなのに、佐久早の体臭と相まってか、シャンプーの香りと混ざっているからなのか、なまえの思考回路をぶつんと遮断してしまうくらいに、いいものだったのだ。こればかりはこう、彼に伝えるのが小っ恥ずかしくて口には出せないのだが、とにかくもう、その香りに、やられてしまっているわけで。

「キス、したい」

絞り出した声は、街角で響いた声と全く異なっていて、別の声帯から発せられたような気がして、なまえは恥ずかしくて、堪らなかった。小一時間前まで、なんの恥ずかしげもなく言えたはずなのに。男の鼓膜はきちんと震えただろう。その証拠にふふふと小さく笑っているが、唇を重ねてくれる様子はない。拗ねた女は可愛らしかった。あぁ、2歳児じゃないんだ。自分より一つ年上の、いじらしくて可愛い女だ。佐久早がそんなことを呑気に考えいると、二つボリュームを上げて女が声を出す。

「…聞こえてるでしょ」
「うん」
「いじわる」
「うん、」

顔を向き合わせれば交わる視線。我慢がならないのは自分。これまた悩みに悩んでのせられたミスティ・ローズの唇をひと舐め。震える女にまた惹かれて、とうとうたっぷり、重ねる。佐久早は自分の唇をちょっとだけすぼめて、その後で左右に引いて、ひとつ感情を声にする。そのままアイスグレーのニットの中に手を突っ込んでも、なまえはもう、嫌だとも言わず、黙ったまま男の首に腕を絡めていた。

2017/12/08