真面目すぎるんじゃないって言ったの、あの人だもんね。初めて入ったラブホテルで、自分に言い聞かせていた。長いこと、恋人がいなかった。誰とも付き合ったことがなくて、やっとそういう人ができたと思ったら、そんな風に言われた。貴方が初めての彼氏なの、こういうのも初めてなの。彼の狭いワンルームのベッドの上で言ったら、目の前の好きだった男は鼻で笑って言った。まじかよ、って。まじだよ悪いかよ、と言い返せるはずもなく、その後のそれは全然、よくなかった。痛い以外の感想なんてなくて、彼の目が「初めてとか重いんだよなあ」って言っているようで、愛されている気なんてしなくて。あ、そもそも愛されていないのか。そう思ったら彼の喧しい鼾を聞きながら泣いていた。それはまるで、舞踏会を終えた王子様が、ガラスの靴を落とした私を汗水垂らしてようやく探し出し、彼自ら目の前にやってきて靴を履かせようとした後で、それを思い切り床に投げつけ、バリンガシャンと砕きニヤニヤと笑って「ご機嫌いかが、お姫様」と言われているような、そんな気分だった。いや、そんな気分なのかどうかさえ分からなかったが、とにかく胸糞悪かった。
「…怖いよねえ、そりゃ」
松川一静は、一時間ほど前に出会った男だ。自己申告するのも変だと思うが、私は自暴自棄になっていた。SNSで、頭の悪そうなアカウントを作ったのは2週間前。寂しいです、彼氏に裏切られました、優しくてエッチが上手な人がすき、誰か慰めて?そんなプロフィールを作って、まぁつまりは遊んでくれる人大募集って広告を打ち出した。自分のルックスはまぁ、よくいるよねこういう女って、そんな感じだから頑張って加工しまくった際どい写真を載せたりして足掻いた。その結果、ほどよくチヤホヤされて、お誘いの言葉も貰って、調子に乗っていた。あれ?私って結構可愛いんじゃない?完全に自惚れた私は1番かっこいい雰囲気の人の誘いに乗った。歳は10くらい上だと言っていた。それが、いまホテルで2人きりな彼だ。色っぽい男だ。妖艶な、濡れたようなその空気感に、会った瞬間からもう、あぁまずいかもしれないとそう思っていたが、2人きりになるともう、己の意思など機能していないことを痛感する。私は部屋に入った瞬間から一歩も動けない。そんな私を振り返って笑い、にこやかに話す。やっぱりやめとく?って、言う。
「なまえちゃん、こういうの初めてなんでしょ」
首を縦に振るのが精一杯で、声など出せなかった。約束していたレストラン。こっちこっち、と手招きされた時点で察していたのに、逃げられなかった。彼と目が合った瞬間に捕らえられていたようなものだったのだと、今になって思う。運ばれてくる料理をまともに胃におさめられない私を見かねたのか、彼は食事の途中だったが店から出ようと提案した。「どうせ目的はこの後だもんね?」と、多分こういうのを何度も経験している彼からすれば何気ない、何でもない台詞だったのだろうが、私からしたらもうそんなの、心臓が煩くならない訳がなくて。あぁ、この後本当にホテルに行くんだ。身体を重ねるんだ。そう思った。彼の車の中は煙草の匂いを消臭スプレーで精一杯誤魔化しているような、人工的な香りがしたがとても清潔で整っていた。会話という会話は、ほとんどない。私は彼の名前以外、何も知らない。その名前が本当の名前なのかも、知らない。
「やっぱ、今日はやめとく?」
「なんで、」
「そんな顔してる女の子、どうこうできないよ」
困ったように笑う彼は、多分あまり困っていない。おそらく私のことなんて、さして興味がないんだと思う。彼からすればこの時間は結構どうでもよくて、私ばっかり、変な覚悟を持ち合わせていて、温度差みたいな、そんなものが生じている。でも、ここで何もしなかったら私、真面目すぎるってレッテル貼られたままで、情けなくてかっこ悪くて、あの鼾が煩い男の言葉がずうっと、胸につっかえるんだ。このイガイガした何かを、取り除いてくれるんじゃないかなって、勝手に希望抱いてるんだ。だから。
「やめ、ないです」
「…あら、そ?本当に?」
「松川さん、してくれますか」
「うん、そういう約束だし」
「あの、」
「だいじょうぶよ」
「…え?」
「優しくするよ、俺」
だからだいじょうぶよって、もう一回繰り返して。
「ぜんぶ脱げたらおいで」
ドアの前で立ち尽くす私に彼はそう言って、バスルームに消えて行く。その背中を追いかけたくて、私はトレンチコートを床に落とした。耳にこびりついて消えないあの男の声が、彼の声ですこし、掻き消されたような気がするから。
2017/11/10