「俺、もう風呂入ったし、あと寝るだけなんですけど」
電話越しだがわかった。いま、一静がどんな顔をしているのか。
夏がどうやら終わったらしい。誰もそう教えてくれやしないのに、タオルケットを洗濯して物置きの奥にしまい、薄手の毛布を引っ張りだした。衣替えはまだ済んでいないが、薄手のカーディガンの使用頻度が増えたのは言うまでもない事実である。季節が変わったことが、誰からも知らされなくとも自分でわかるようになった。勝手に経験値を蓄積し、大人とかいうぼんやりした表現のそれに近付いていくことに何となく焦りと恐怖を感じる自分が可笑しくて。月は丸く、それを見上げる自分はとんがっていた。今日も仕事が終わった。終わった、というよりは終わったということにした、の方がニュアンスとして正しいような気がするが、細かいことはどうだっていい。とにかく私は疲弊しているのだ。心も、身体もくたくたで、アイロンをかけそこねてシワのよったシャツみたいに、使い物にならないのだ。
「えぇ、ダメ?」
「なんで俺なの」
「こんなの一静くらいだよ、頼めるの」
「彼氏に頼めよ」
「こんな時間にラーメン食べる女だと思われるの嫌なんだもん」
「まだ猫かぶってんの」
「かぶるよそりゃ、頼みの綱だもん」
2ヶ月前、久しぶりにできた恋人は、友人にあらかたのプロフィールを報告すると上々の反応だった。いいじゃん、悪くないよって、そんな感じの人だ。ちゃんとした会社に勤め、どちらかと言えば高収入。なんならそこが一番のセールスポイントである。平均的な身長に平均的な顔立ち、お店選びも無難中の無難。よく言えば真面目な、言葉を選ばないのならばクソつまんない男だ。加えて言うなら間延びした話し方にうんざりはしている。それでも周りが結婚が、子どもが、なんて謳いはじめたのだから仕方ない。私だって多少焦る。白馬の王子さまがこの日本という国に存在しないことに今更気付いた私は、結構必死だった。
「どこよ」
「…あの、前の前に行ったところ」
「原崎の?」
「うん、そこ」
「なまえ、いまどこ」
「会社出たところ、駅で待ち合わせよう」
「迎え行くからいいよ、そこで待ってて」
「でも、」
「こんな時間に電話してきて今更遠慮とかいいから」
「…ごめん」
なに謝ってんの、って一静は笑った。あそこのラーメン美味いしいいよと、そう言って。
「あの…会社の右隣のコンビニ行くから、そこいて」
「うん、ありがとう」
「着いたら連絡する」
「うん、」
「はい、じゃあ後ほど」
一静とは、小学校から高校までずっと一緒で、幼馴染みたいな感じだ。特別仲がよかったわけではないが、それだけ長く同じ学校に通っていれば自然とお互いのことを知ることになる。知りたくなくても、みたいな。そんな感じだ。大学でようやく離れ、成人した頃に中学の同窓会で再会、それからちょこちょここうやって会うようになった。今が一番、距離が近いような気がする。昔はこうやって、突然呼び出したりすることはなかった。同窓会で「最近どうよ?」なんて話しをしたら私たちは意外と思考が似てて、面白かったのだ。結婚したとしても他人と同じ家に住み生活をするイメージがわかない、子どもは好きだけれどきちんと育てられる自信がない、でもこのまま結婚もせずに歳を重ねることに漠然とした不安を感じる。そんなことを小一時間話して、その場は終了。私はまたすぐにでも一静と話したくて、自宅に着いた後どうもうずうずと落ち着かず、その夜勢いのままに彼に連絡をした。酔っ払っていたのもあったと思う。深夜、彼の声はちょっとうんざりした感じで「女の人って本当、話すの好きだよね」と呆れたように言った。そんなこと御構い無しで、私はまた、小一時間、答えの出ないひとりディベートを繰り広げた。一静はたいてい、からりと笑って頷いていた。
「ごめん」
「いいって、んな謝んなくても」
コンビニでファッション誌を眺めていたらスマートフォンが震えた。着いたよ、とゆるいキャラクターのLINEスタンプ。一静ってこういうの使うんだねと聞いたことがあったが、「誕生日とかにプレゼントでもらったやつよ、バレー部の奴らとかに」との返答があったので納得した。彼のセンスではないだろうな、と思ったからだが、使わなくてもいいだろうにそこそこの使用率なのでそこそこ気に入っているのだろうとも思う。仲良いね、と言ったときも一静はただ笑うだけで、否定も肯定もナシ。あまり、彼は話さない。私の話を傾聴し、時折笑う。そんな様子だ。
「寝てたの?」
「さすがに寝てないよ。寝たいな、とは思ってたけど」
「早いね」
「なまえが遅くまで仕事しすぎなんだよ」
「まだ21時だよ」
「忙しいって言ってたっけ?」
「いや、今日はたまたま」
「ふーん」
仕事で、ちょっとした確認不足で、小さいトラブルが起きて。私の目線から見れば私は悪くないはずだが、社会と会社は理不尽の詰め合わせなのだ。なんで私が頭下げなきゃいけないの、と思いながら申し訳ございませんでしたを口から吐き出してみる。昔は躊躇いながら言葉を発していたのに、もうすっかり慣れてきた自分にうんざりもしている。最近、私が一静を呼び出すのはこういう、ちょっと苛立っている時だ。交際している彼には言えない、というか言いたくない。付き合ってすぐの頃に急遽残業をすることになって、今日みたいに何かが募って溢れそうだったので彼を呼び出してあのねって話したが、「それはなまえがもっとこうするべきなんじゃない?」「次はこうしたらいいんじゃない?」と、ご丁寧にアドバイスをくれたので即刻通話を遮断した。スマートフォンをベッドに投げつけてしまうほどに頭にきた。それから彼にこういう感情は見せないようにしている。お互い、なんのメリットもないから。
「一静は?どう?最近」
「最近って…先週も会って話したじゃん」
「変わりなし?」
「ないね、相変わらず」
「合コンとか行けばいいのに」
「えっ、なに?仕事の話じゃなくて?」
「うん、仕事の話じゃなくて」
「合コンねぇ…、行けばいい?」
「うん、絶対モテるよ」
「なんなの、その自信」
「一静、彼女いないの勿体無いから」
「そ、」
滑らかな運転とか、話す時の語尾とか、もちろん彼の見た目とか。その辺でわかる、一静は女の子にちやほやされるタイプだって。いや、それよりもこう、遠くから見つめていたいと思われる類に入ってくるのかもしれない。声をかける時にちょっと遠慮してしまう感じだ。私なんかが声掛けてもいいのかなって、そう考えてしまうような、そんな男だ。今だってそう。急な誘いだ、サッとチョイスしたであろうベージュの厚手のTシャツにブラックのスキニーパンツはシンプルだったが彼の体格にぴったりだ。自分に何が似合うかもよくわかっている。そういうところがきっと女の子をくらりとさせるのだ。
風呂上がりだと言っていた彼からは珍しく石鹸の香りがする。普段は煙草の匂いがするから新鮮だった。その煙草も、もうやめると言っているがやめている様子はない。車内の灰皿にも数本、吸い殻がある。指摘したところで「本数は減らしてますから」とか言われるのが想像できたので言うのはやめておいた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
2名様ですか?と明るい声。こんな時間なのに店内は7割くらい席が埋まっていた。テーブル席で向き合う形。おしぼりとお冷やが運ばれていたと同時に、一静と私はオーダーを済ませる。
「醤油で」
「私、塩で」
「ありがとうございます、醤油ラーメンと塩ラーメンがおひとつずつですね」
「お願いします」
私も彼も、注文したものが運ばれてくるまではラリーの短い会話をしたり、スマートフォンを弄ったりしていた。彼からも「次、待ち合わせ10時でいい?」と連絡が入っていたがまだ返信する気にはなれず、既読をつけるのもやめておいた。一静はほとんど、私の方を見ない。
「なまえ」
「ん?」
「俺、さっき変わりないって言ったけどさ」
「うん」
「最近考えてたんだよ」
着席して5分と少しくらいが経ったろうか。お待たせしました、と女性の店員が私と彼の丼をテーブルに置く。ごゆっくりどうぞ、という言葉と共に。松川は私に黒い箸を手渡しながら話を続け、いただきますと大きな手をそっと合わせた。スープを口に含む。
「俺、好きなんだよね」
「インスタ映え気にしすぎな元カノのこと?」
「いや、なまえのこと」
湯気が上がる。むわりと熱いのはそれのせいか、男の言葉のせいか。把握ができないのと突然の告白に戸惑った私は、取り敢えず一口、麺を啜った。やっぱここのラーメン美味いな、と一静が呟いて、視線は美味いそれしか見ていなくて。
「なに?どういうこと?」
「いやさ、運転中とか…あぁ、1人の時ね、さっきの話じゃなくて」
「うん」
「考えるじゃん、暇だし、色々」
フーッと、一静は麺を冷まし、食事をすることをやめない。私は急に味覚が鈍ったようで、美味い美味いと言いながら咀嚼する彼に同意の言葉をかけられなかった。ただただ量を減らすためにそれを胃に収める。こんな話してるんだからちょっと食べるのやめてよと思うが、それを指摘する余裕さえない。
「多分ずっと好きなんだよね」
「私のこと?」
「うん、なまえのこと」
「なんで?」
「なんで…なんで、って言われても」
なんででしょうね。そう言う彼の器は終わりが近かった。食わないと伸びるよ、と言うこの男はちょっと狂っているような気がする。なんでこのタイミングでそんなことを言うんだ。せいぜいさっきの車の中で言うべきではないだろうか、と思いつつ美しく二等分された半熟卵を口に含む。私が口をうまく動かせないことに気付いているのか否か、その辺はよくわからないが一静は畳み掛けるように言う、スラスラと、低めの声で。
「なんでこんな面倒な呼び出しに付き合っちゃうんだろうって思ってさ。多分男友達だったら速攻断るし…気の無い女の子だったら電話出ないか、出ても適当に理由つけて流すよ、俺は」
捲し立てるようにフィナーレを迎えようとしている一静のことを、私は止められなかった。続きは?エンディングはここなの?そう気になっているということは、これって一体?あぁ、私も好きなのかな、一静のこと。思ってるんだよね、どっかで。“女の子にちやほやされるタイプの彼が、私を好きになることはないし、ましてや付き合ってくれるはずがない”って。
「でもこうやって面倒な呼び出しに付き合ってるからさ。俺、好きなんだよね、なまえのこと」
ごちそうさまでした、と食前と同じ動作。すげえ腹いっぱい、と独り言。ようやく私に向いた視線は、妙に熱っぽい。
「で…どう?」
「…どう、って」
「俺、どう?ダメ?来週花巻に合コン誘われてるんだけど行けばいい?」
「っ、ダメ、」
「ダメ?俺が?合コンが?」
その質問に慌てふためく私は完全に彼の手のひらの中で踊らされてる。でも全く、嫌じゃない。むしろそれが心地よくて。
「まぁ、取り敢えず食べなよ」
そう笑ってまたスマートフォンを弄るわけだが、一静の耳が赤いことに気付いた私の身になって欲しい。早く完食して彼に言おう、私でいいのって。食べているところをじっと見られるのが苦手だということを知って、わざと視線を外してくれる彼が、私も好きだから。
2017/09/09 title by 草臥れた愛で良ければ