先日叩いた大口のわりに、彼女の居候ぶりは慎ましいものだった。貸し与えられた部屋は綺麗に使い、食事は自分で作り、用意されたら残さず食べた。ディーノは部下たちに会食の詳細など話さなかったので、彼らは単にアンリが押しかけてきたのだとすら思っているらしく、「ボスも罪な男だな」とからかわれる始末だ。
 この認識は彼女の父親すら同様で、ディーノがすぐさま連絡したにも関わらず「娘の気が済むまで付き合ってやってくれないか?」と言われてしまった。困った家出娘が転がり込んだ先は未来のパイプなのだから何も痛手はない。相当な勇気をもって父親への反抗を示したというのに、これではアンリが気の毒だ。
 つまり、すべて問題ない。
 そういうことになってしまった。

「ごきげんよう、ディーノ。早いのね」
「チャオ、アンリ。出かけるからな」
「もう行くの?」
「おう」
「行ってらっしゃい、お気をつけて」

 アンリは相変わらずそつなくディーノに接している。彼女自身すぐに父親に連れ戻されると思っていたのに音沙汰がないので、さすがに身の振りを考えているだろうに、そんな様子も見せなかった。
 マフィアのアジトにたった一人、気のいい連中が多いとはいえ居心地はあまり良くないだろう。ディーノが彼女を受け入れた日のような明るい笑顔はあれ以来見ていない。もともと顔に出さない性質なのかもしれないが。
 食堂に消えていくアンリをぼうっと見送るディーノの背を、トントンと叩く人物がいた。部下のロマーリオが口元に笑みを浮かべたまま、若きボスの肩を組んで声をひそめる。

「何だよ?」
「あの子はボスからのプロポーズを待ってんのさ。いまに『言うのが遅いわよ』って呆れられるぜ」
「……そういうんじゃねえと思うけど」
「ボスはまだ若いからわからねえんだよ」

 ロマーリオが訳知り顔で何度も頷く。彼の言う通りディーノはまだ若く、結婚と言われてもピンと来ないのが本音だ。神の前で永遠の愛を誓い、一生寄り添う相手。切っても切れないという意味ではディーノにとってキャバッローネのファミリーに近いかもしれなかった。
 誰もかれもディーノとアンリは結婚するものと思っている。ディーノは皆が望むのなら喜んで受け入れる気でいたが、ただ彼女の気持ちだけが気がかりだった。


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 ディーノが出先から帰ってくるなり放り込まれた車のなかで、アンリは行儀よく両足を揃えて座っていた。男性が運転する車の助手席に乗るのが初めてだったので緊張しているのもあるが、一番気にかかるのは行き先を訪ねてもまあまあ、とはぐらかされて教えてもらえないことだった。
 真っ赤な車がハイウェイを下り、窓の外では木々が穏やかに風で揺れている。きっと浴びたら気持ちがいいなとアンリが思っていると、ディーノが運転席から窓を開けてくれた。
 湿った空気が髪をはらう。
 一瞬トンネルに入り、暗い道からぱっと視界が明るく開けた。太陽に照らされたのは抜けるように青い水面。美しいビーチに人の姿はなく、ただひたすらに海が広がっている。男はドアを開けて驚いているアンリの手を恭しく取った。どうやらエスコートするつもりのようだ。

「ほら、アンリ」
「ありがとう………でも海?どうして?」
「こいつもあるぜ」

 フェラーリの後部座席には不釣り合いな業務用のクーラーボックスには、白いアネモネが描かれたボトルが収まっている。ディーノは懐から出した小さなナイフを器用にコルクへと刺し、ボン、と小気味良い音とともにペリエ・ジュエのシャンパンが花開く。
 シャンパングラスはさすがに持ってこれなかったのか、金色の液体が頑丈そうなガラスコップに注がれ、美女の前に差し出された。

「そらよ、乾杯だ」
「ねえ、そろそろ教えてもらえないの?」
「プライベートビーチでシャンパン飲むんだって息巻いてたじゃねえか。かっこいいウェイターは……まあ、俺しかいねえけど我慢してくれ」
「あっ……あれは言葉の綾よ!」
「でも、悪くねえだろ?」

 当然、ディーノはあの日の脅し文句が本気でないことなど分かっている。だが屋敷のファミリーに気を遣って部屋にこもっているよりは、よっぽど息がしやすいはずだろうから。
 悪戯が成功した子供のように笑うディーノにアンリは息を呑んで、グラスを握りしめて俯く。後ずさるように一歩下がったパンプスのヒールが砂浜に沈み、ふらついた彼女の腕をディーノがとっさに引いた。その拍子に瞳からぽろりと涙が落ちて、男はひどく動揺する。まさか泣き出すとは思っていなかったからだ。

「おいおい」
「ディーノに……ずっと謝りたかったの。キャバッローネの方達は親切で、あなたは慈悲深くて優しい人よ。あの屋敷にいる人はみんなあなたを慕って、とても、幸せそうだったわ」
「…………、」
「それに、酷いこと言ったのに、私を助けてくれた……それに、それに、こんなことまで………たくさん貰いすぎて、わたし、返せるものなんて何もないのに………っ」

 彼女は美しい鼻の稜線を崩して唇を噛んだ。がんじがらめの自分に手を差し伸べてくれた。行き場所に困ったとき拾ってくれた。相手から感激するほどの救いや喜びを受け取ってばかりで、それを返すこともできないなんて。それがとても悔しいと、喉を切なく震わせて泣いている。
 まずい、頭がのぼせてきそうだ。
 ディーノはグラスを持っていなかったら、衝動的にアンリを抱きしめていたかもしれなかった。今まで少女にしか見えなかった彼女が、急に手に入れがたい輝く宝のように見えて、周囲の景色が透明になったような心地さえした。
 彼女は指先で涙をぬぐい、男が惚けているあいだにはっと思いついたように声をあげる。

「ディーノ、本当に私と結婚するっ?」
「ばッ、馬鹿、お前な!」
「ダメ? ダメよね……」

 彼女のなかでは一番良い考えだったのか、それはそれは残念そうに肩を落とした。確かにとても正しい。アンリの持ち物のなかでは彼女自身とその家族が一番キャバッローネにとって価値が高い。しかしディーノが声を荒げたのはそんな理由ではなかった。"先を越された"と思ったからだ。
 ディーノはとうとう観念した。観念して、シャンパンを一気に飲み干してグラスを車のボンネットに置いた。ロマーリオが言ったように、自分はどうしようもなく青二才だったらしい。

「……もうちょっと自分を大事にしろっていっても、聞かねえだろうし」
「ん……」
「これからは、俺がお前を大事にする」

 彼女の目が見開かれる。
 そのときが来たら、映画や小説のイタリアーノのように情熱的に恋人をかき抱いて、口付けできると思っていた。だが現実はそっと抱き寄せるのが精一杯で、彼女が緊張をゆるめて体を預けてくれたことに、ディーノはほっと安堵のため息をついた。
 波の音が遠く響いている。
 二人はどちらからともなく体を離した。春の柔らかな潮風が、火照った頬を優しく冷ましてくれる。ディーノが耐え切れずにくしゃりとはにかんで笑うと、彼女もつられて柔らかく目を細めた。
 
「結局、親父さんの思惑通りか……」
「そうね。でもいいの、ちゃんとお父様にも話をするわ。そういう約束だったものね」

 アンリは景気づけとばかりにシャンパンを一口飲んだ。繊細な泡が舌に転がり、その味わいは晴れやかな笑顔を運んでくる。ディーノがあんなでまかせの口約束を守ってくれたのだから、自分も守らなければいけない。そうやって少しずつても彼に返していきたかった。
 まさかこんなことになるなんて。
 飾り立てて会食に赴いたときの孤独な過去の自分に、今から会う人に救われるのだと教えてあげたかった。胸がいっぱいなのに体はとても軽い。見つめ合ったままでいるのはあまりにくすぐったいので、アンリは額をディーノの胸にうずめて、秘密を打ち明けるように小さな声でささやいた。

「あなたといれば、きっと大丈夫」


 




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