迷宮の中は音が絶えることがない。この幾重にも連なった魔法の国には、数え切れないほどの魂がひそんでいる。マルシルの魔法の守護を受けるこの一室は、かつて広々とした浴室だったのだろうか。朽ち果てた床には色とりどりのタイルがのぞいており、焚き火の光がつるりとしたその面影を照らしていた。
 薄闇の中で膝を抱えていると、皆の寝息が穏やかに通り抜けていく。彼らは皆違う種族としての誇りを持ち、家を持ち、故郷を持っているのだろう。かつて狂った魔術師が黄金の王国を支配する前、この地も誰かの帰るべき場所であったはずなのだ。
 パーティに加わり迷宮に入ってからずっと賑やかに過ごしていたせいか、一人になるとつい空想をしてしまう。アンリが炎をつぶさに見つめながら千年の時に想いを馳せていると、不意に後ろから声がかかった。

「おい、交代だぜ」
「……あれ?もうそんな時間?」
「つーか過ぎてる」
「ゴメン。でもあたし眠くないし、まだ大丈夫だよ」
「馬鹿言うな、時間は時間だ。眠らなくても横になってりゃ回復はするさ」

 いつのまにか起きていたチルチャックは少し顔をしかめ、自分が寝ていた寝床をぽんと叩いた。不機嫌というよりは単に眠いのだろう。アンリは渋々といった様子で装備を解き、楽な格好になってそこに横たわる。毛布に包まると熱が残っているおかげで、足先がじんわりと暖かかった。
 それでも眠気はまだ遠い。
 パチ、パチ、と薪が跳ねる音がする。揺らめく炎が撫でる彼の横顔はまるで年若い少年のようだが、目の色は場数を踏んだ大人の冒険者のそれだ。ときおり眠たげに目を細めても警戒を怠ることはない。アンリはふと彼に聞きたいことが浮かんだが、口を開くより前に怪訝そうなチルチャックが振り返った。

「あのな、見過ぎ」
「……えっと、聞いてもいい?」
「んー、内容によるけど」
「チルチャックは、ふるさとってあるの。帰る場所とか、家族とか」

 意外な質問に彼は軽く目を見開いた。内容そのものよりも、彼女に聞かれたことに驚いたのだ。彼らシルフィードは正確には種族ではなく、混血によって稀に生まれる一血族でしかない。そして彼らの多くは群れを望まず、ちょうどアンリのように気の向くままに旅をしていると聞く。
 チルチャックにとってダンジョン攻略は鍵師としての仕事だ。仲間は友人や家族とは違う。そこをごちゃ混ぜにして不必要に馴れ合うのはごめんだったから、彼はふだん自身のバックボーンを口にしないようにしていた。
 ただ、彼女の目があまりにも必死で真剣だったので、一蹴するのを躊躇った。風のように自由を愛す精霊の眷属がどうしてハーフフットの故郷なんてものに興味を示すのか―――ともかくチルチャックは言葉を探してみることにした。といっても、出た台詞はこのとおりだ。

「つまんねえところだよ。まー静かなのだけがとりえだから、じいさんばあさんが多い」
「ここから遠いの?」
「歩きじゃ数日かかるけど、馬車があればそんなに。初めてのやつは迷うかもな」
「じゃあ、いいところ?」
「ん……退屈だけど、悪くないと思うぜ。平地だから遮るもんが何もないもんだから、年がら年中眩しいったらなくてよ。夜明けと夕暮れにトウモロコシ畑が金色に光るんだ」
「へえー……」

 チルチャックが懐かしげに目を細めて語る。アンリは彼の故郷をできるかり丁寧に空想してみた。傾斜が穏やかな地の一面に広がる畑。土と穀物の香り。きっと夜の炎よりも優しく暖かな陽光が、トウモロコシのひげを金色に輝かせるのだろう。素朴に暮らすハーフフットの婦人が、家族のために夕飯をこしらえているのかもしれない。
 空想のなかでの「故郷」は眩しい幸福に満ちている。彼がつまらないといったその地は、アンリにとってアヴァロン(恵みの島)そのものだ。夢見るように毛布を抱きしめて「いいな」ととても小さく呟かれた声を、チルチャックの聡い耳は聴き逃すことができなかった。彼女の瞼はもう眠たげに閉じられて、炎が揺らめくごとにちらちらとまつげの影が動いている。

「そんなに見たきゃ連れてってやるよ」

 思わず飛び出た言葉だった。チルチャックは自分がそんなことを言ったのが信じられず、ぱっと口元を覆う。下手をしたら、だからそんな羨ましそうな顔するな、と勝手に続いてしまいそうだった。そうしてまごついているうちにアンリが瞳を少女のように明るく輝かせたので、チルチャックはもうそれが冗談だと誤魔化すこともできなくなった。

「ホントに?」
「あー、うん」
「うわあ、チルチャックがそんなこと言うなんてびっくりした。 あたし、畑ってあんまり見たことないの。楽しみだなー……」
「ただのトウモロコシだっての」
「いいの、約束ね」

 アンリが毛布から手を出して微笑む。チルチャックは彼女まで自分を子供扱いしているのかと眉根を寄せたが、きらきらした瞳は相変わらず大真面目だった。仕方なさそうに差し出された鍵師の左手に、躊躇いなく踊り子の指が絡まって、チルチャックは面食らう。
 手を繋いで照れる歳でもないが。
 なんとなく目を逸らしていると、彼女はささやくように唇から音を零したあと(それはチルチャックには分からない言語だった)、ぎゅっと手を強く握った。あまりに気恥ずかしいのでしばらく好きにさせていると、小さくすうすうと健やかな寝息が聞こえてくる。チルチャックは再び呆気にとられるほかなかった。

「マジか」

 仮にも男と手を繋いだまま眠りこけるアンリに、彼は大きなため息をついて右手を額に当てる。マルシルあたりに見られたらからかわれるどころでは済まない。鍵師のチルチャックに女の手を解くなんて朝飯前だったが。
 そうする気になれないのは何故か。
 燃える炎が頼りなくなってきた。枝葉は手の届く範囲にある。魔物の息は近くには感じない。それに見張り交代の時間はまだ先だ。あちこち考えがさまよったあと、今日何度めかの場所へと行き着く。この子なら別に構わないか、と。チルチャックは繋いだ手をそのままにアンリの毛布を肩までかけてやり、枝を数本火にくべる。千年あまり経ってなお輝きを失わない面影が、炎にきらりと光った。




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