呼吸をするたびに胸がヒュウヒュウと音を立てる。その響きに言いようのない恐ろしさ感じるのは、一歩進むたびに濃くなる不安の影のせいだろうか。寝静まった部屋を息を殺してゆっくりゆっくりと歩く。はやる気持ちが心臓を強く打って、そのたびに不穏な痛みが走った。
 家の中は相変わらず香ばしいお菓子のにおいが漂っている。マドレーヌやシナモンロールのような香りは食欲をそそったが、目の前に出されてもとても食べる気にはなれなかった。いま思い出しても身震いする。大きな白いヤギのような女性が、牙の覗く口で自分に喋りかける姿は。

「****、*******」

 何を言われてもちっとも分からない。
 知らない言葉。知らない生き物。知らない家。知らない痛み。怖くて怖くて動けない子供に、彼女は表情を曇らせてパイを紙に包んでくれた。それは結局どこにも隠すところがなくて持ってきてしまったけれど―――それより今は逃げないといけない。
 ザラザラした音が耳裏から聞こえる。隣の部屋から小さな物音が響いた。産毛が飛び上がって思わずすぐそばの下り階段に隠れ、しばらく頭を抱えて座り込んだ。ちょうど童話のヘンゼルとグレーテルのように、太らせるためのベッドから逃げ出したとわかれば殺されてしまうと思った。
 音が止む。
 戻れないのなら進むしかない。
 恐る恐るに下りた階段の先、冷たい地下の廊下は、子供の短い足には永遠のように感じられた。猫のように足音を消して歩く。見つかれば最後と身を縮めて。そして長い道にもやがて終わりが訪れた。

(扉……)

 黒く重苦しい巨大な扉。そのわずかな下の隙間からは絶え間なく風が吹き込んでいた。子供はわずかな希望にすがるように必死に重いドアを押して、何度も何度も肩をぶつけたあとやっと通れるくらいに開くと、そこに足と体を無理やりねじ込んだ。最後に腕の先が抜けると、バタン、と重低音を立てて扉が閉まった。
 ああ、出られた!外だ!
 子供はそのまま走り出した。いつのまにか溢れ出した涙が止まらなかった。胸がまたヒュウヒュウと鳴って痛む。中では感じられなかったたっぷりとした空気が、髪や肌を撫でる。布製のスニーカーに足元の雪がしみ込んできても、それでも子供は自由だった。 


***

 ―――以上の映像は、全て白黒である。いや、映像というと誤解を招きかねない。サンズは気付けば、恐らく先ほどの繭に包まれていた子供があちこち動き回るのを横をついて見ていた。不思議なことにサンズは一歩も歩いていないのにその子供から離れることはなかった。付かず離れずその子の後ろ頭を見ているので、顔だけが分からない。
 白黒映画を見ている気分だ。
 しかしこんなに近くで見ていると、まるで自分まで胸が痛いような気になってくる。ドラマの主人公に少なからず感情移入するのに似ているが、それよりももっと強い。これではまるで己が体験しているかのようだ。

 子供は扉を抜け、雪道に出て走り出した。背の高い樹木が立ち並ぶ長い道のり。その先には大きすぎる門のついた橋がある。サンズははたと気付いた。
 ここはスノーディンだ。
 しかしそうだとしたら、どうも何かおかしい。あの門を彼の兄弟が作ったのはそう昔のことではないし、その後だとしたら見張りをしていたサンズがこの子供に気付かないわけはない。真面目に仕事をしている時だとしたらの話ではあるが。

「人間、ここでの挨拶の仕方を教えてやる―――振り返って手を握れ」

 おいおい、嘘だろ。
 声が後ろからかけられる。子供は恐怖に全身が凍りつく。サンズは振り返ることを拒否したかったが、子供が振り返って強制的に視点が回る。青い上着によれたズボン。ニヤけた顔。嫌というほど見覚えがある。
 誓ってもいい。
 誓って自分は人間を見たことがない、とサンズは誰かに向かって弁明したくなった。知っているならば熱狂的な人間ハンターの兄弟に教えないわけはなかったし、あの繭の形を見た瞬間に気づいたはずだ。だがフィルムのように目の前を流れる光景を見た今だからこそ、やっと疑いの余地が出てくる。こういったことに彼は"覚え"があった。眩暈がする。
 
 ―――タイムラインの逆行だ。






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