坂田アンリの記憶は病室からはじまる。
 それ以前のことはどうしてか、彼方にあるように断片的にしか思い出せない。古いが清潔な病室の天井から部屋を見渡すと、一人の男がアンリの手を握っていた。眩しいくらいに降り注ぐ朝日が、白銀の髪を照らしている。アンリがわずかに手を動かすと、彼は弾かれたように顔を上げた。
 赤い目だ。白目が真っ赤に充血しているものあるが、瞳もはっきりと緋色で、目の下には濃い隈もある。寝ていないか、一晩中泣き腫らしたようにもみえた。彼は顔を横に倒してぼうっとする少女を見て呼吸を止め、糸が切れるように息を吐いた。

「……お前な、アンリっつーんだ。覚えてるか」
「う、ん……」
「俺は、……」

 男はそれきり声を途絶えさせた。子供の黒い瞳が自身の名前を呼ばれたときのように、頷くとは限らない。途端に表情を凍りつかせる彼は、泣きそうな誰かに似ていた。うさぎのように目を赤くして泣いている子には、いつもこうしていた気がする。アンリはおぼろげな視界の中で、片方の手で俯く頬にほんの少し触れた。
 銀髪の男は眉と鼻頭にしわを寄せ、くしゃりと顔を歪ませる。そうして一度瞬きをした赤い瞳が子供を見て、ちょうど子供がそうしたように、優しく指で頬を撫でた。

「俺ァ銀時だ。坂田銀時」
「ぎんとき」

 その名前は知ってる。
 ぽつりと零れた言葉に、銀時は今度こそ泣いてしまいそうになった。子供はその身に余る深い刀傷の治療のせいか、ずっと朦朧としていて、目を開けているときも眠くて眠くてたまらなかった。もう寝てろ、と男は荒れた大きな掌を彼女の両瞼に乗せる。アンリの意識はゆっくりと暖かな闇に落ちていき、彼の顔を見ることはできなかった。
 けれどよく覚えている。男の青ざめて冷えた頬、前髪を梳く朝風、荒れた指先、誰に聞かせるためでもない、深い安堵と決心の声を。

「お前には、もう二度とこんなことは起こらねェように、するからな……」



▲▼



 ーーーピピピ、ピピピ。
 目覚ましを無意識に止める。朝だ。いつもは騒がしいかぶき町もまだ静かで、音を立てないようにそっと布団を畳んで着替えをする。たまに銀時が先に起きて作ってくれることもあるが、朝食の準備はたいていはアンリの仕事だった。
 といっても大したものを用意するわけではない。昨日仕掛けておいた米を混ぜて、片手鍋に水を入れて火をかける。豆腐やねぎを切ったついでに漬物も用意し、簡単に味噌汁を作った。だしが余ったから卵も焼く。焼き鮭でもあったら豪華だが、二人ならこれで十分だった。
 午前8時。家主はいつもならにおいにつられて起きてくるのだが、今日はどうにも朝寝坊のようだ。アンリは着物の裾をはらって部屋の襖をあける。

「銀ちゃん、起きて」
「ん〜〜〜………」
「ご飯冷めちゃうよ」

 そういえば昨日は帰りが遅かったので、どこかでお酒を飲んできたのかもしれない。二日酔いならしじみの味噌汁にすればよかったかな、と思いながらアンリは銀時の布団をぽんぽんと叩く。起きる気配がない。最近は肌寒いから朝が辛いのはよくわかるが、時間も時間だ。
 えい、とかけ布団の端を持って勢いよくひっぺがすと、銀時は一気に目を開いて飛び起きた。何が起きたのか一瞬分からなかったようだが、澄ました顔で布団をたたむアンリを見て、ようやく観念したようだった。

「……はよ」
「おはよう」

 彼が頭をぼりぼりと掻きながら返事をすると、アンリが仕方がなさそうに小さく微笑む。それでずいぶん目が覚めたのか、銀時もつられて少し笑い、寝間着のまま居間に出た。机にはいつもどおりほっとするような朝食が並んでいる。
 ここはかぶき町の万事屋。店主の坂田銀時はだらしのない男だが、きっちりと筋は通すためか有事の際に彼を頼る者は多い。今日は依頼人との約束があるので帰りは遅くなるだろう。この町では何が起こっても不思議ではない。よって仕事がある日は、朝ご飯を食べながら話すのが一番の団欒だった。
 彼らは共に暮らしているが、親子というわけではない。説明すると長く複雑になってしまう。ともかく二人の間に血縁関係はなかったが、銀時がこのアンリという少女を可愛がっているのは周りから見ても明らかだった。

「今日はあのお茶屋さんに行くからね」
「オイオイお前ほんとにバイトすんの? いや確かに金はねーけど」
「良いって言ったでしょ。そんなに毎日行くわけじゃないから心配しないでよ」
「いーや油断すんな、かぶき町なんて変態しかいねーんだぞ!茶屋で若い女がいたらケツ触ることしか考えてねーんだ男ってやつァどいつもこいつも……」
「銀ちゃんも?」
「アッ 俺は違うからね」

 しまったという顔で弁明する銀時を呆れたように見ながら、アンリは箸を置いてごちそうさまと手を合わせる。銀時も食べ終わったのか全部の食器を流しに置くと、時計を見て慌てて着替えに戻った。もう9時だ。
 アンリが洗い物を済ませたころ、銀時はいつもの着流しに身を包んで部屋から出てきた。が、寝癖が微妙に直っていない。木刀を腰に差してブーツを履いている彼にそれを教えようと玄関に近づくと、銀時はちょいちょいとアンリを手で呼んだ。そして思わず「なに?」と開こうとしたアンリの口に、素早く手に持っていたものを放り込む。

「!」
「んじゃ、イイコでな」

 銀時はアンリが咥えたチロルチョコレートにちゅ、と唇を押し当て、悪戯が成功した少年のように笑って出ていった。アンリは呆然としたあと、他にどうすることもできず顔を真っ赤にしながらそれを口に入れる。別に嫌というわけではない。しかし銀時はたまにこういうことをするが、食べさせるのがチョコレートというあたり子供扱いなのかなんなのか、よく分からなかった。
 大人しくもぐもぐとチョコレートを食べながら、アンリはあ、と小さく声を上げる。妙に機嫌よくかぶき町を歩いていく銀時の後頭部には、相変わらず寝癖がしっかりとついていた。





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