生きている以上、どうしても腹が空く。アンリはずっと亡骸から離れずにいたが、朝日が昇りきったころおもむろに立ち上がった。今日は水曜日だ。教会に行けばスープとパンがもらえる。アンリは土まみれの父親にくっついていたせいで汚れてしまった服を見て息をついた。
 少女はとぼとぼと工場跡に歩いて行った。ここには穴の空いた巨大な雨水タンクが取り壊されないまま残っていて、暖かいうちはここで体を洗うことができる。アンリはバケツに水を汲んで頭から被り、手のひらで体を擦る。泥が落ちていく。全身が清潔になるにつれて堪らなく悲しくなって、ついに涙が溢れてきた。
 子供は死んだ人間にもう会えないことを知っている。二度と返事をしてくれることも、頭を撫でてくれないことも知っている。ただこれから一人でどうやって生きればいいのかは分からなかった。

「………、ぅう………、う………」

 身体を痛いくらいに擦る。全身からすっかり泥が落ちて綺麗になっても涙が止まらず、アンリはもたもたと身体をボロ切れで拭いて、持っていた服の中でもまだ一番清潔なワンピースを着た。それから何度も何度もしゃくりあげて父親を振り返りながらも、教会へと歩きだした。
 自分一人で行っても神父様は食事をくれるだろうか。祈りの言葉をもっとちゃんと覚えていれば良かった。お父さんはどこへ行ってしまうんだろう。幼い子供の小さな頭は心配ごとでいっぱいになり、俯いて目玉が溶けそうなほど涙が溢れる。
 そうして歩いているうちに、アンリはふと自分が知らない場所に居ることに気付いた。

「え?」

 ひやりと胃が冷たくなる。ここはいつもの汚らしいスラムではない。あたりを見渡すとドブ泥に塗れた道ではなく、整備された美しい町だった。父が寄り付かなかった町の表は、都会の中心部に比べれば決して華やかでも賑やかでもなかったが、アンリから見ると天国のように綺麗に見えた。
 けれど、教会への道ではない。
 知らない場所。シワひとつないスーツやワンピースを身に纏った人々。嗅いだことがない匂い。大きな建物。アンリにはそれらすべてが急によそよそしく恐ろしいものに見えて、必死にキョロキョロと目を泳がせる。前をしっかり見ていなかったせいで、どんと何かにぶつかって転んでしまった。子供が顔を上げると、上品な佇まいの老夫婦が驚いたようにこちらを見ていた。

「あらあら、大丈夫かしら?」
「あ………だ、だい、じょ、ぶです………」
「お嬢ちゃん、一人?」
「おい!」

 屈んでアンリを心配そうに見る婦人の肩を老紳士が叩く。改めて子供を改めて見た彼女はその意味に気付いたようだった。ぼさぼさの髪に皺の寄ったコットンのワンピース。底が抜けかけた靴。親らしい大人はそばにいない。幼い子供がこんな格好で一人でいる理由はひとつしかなかった。
 二人の目に浮かんだ哀れみをアンリは敏感に感じ、弾かれたように立ち上がって離れる。服が汚れてしまった。綺麗な洋服を着た大人の近くにいるとひどく惨めで、アンリは顔を真っ赤にして涙を溢れさせた。ワンピースの裾を握りしめて俯いてしまった子供に、老婦人は少し躊躇ったあと優しく問いかけた。

「どこかへ行くところ?」
「……教会に…………」
「そう、偉いのねえ。教会はもう少しあっちのほうだから、連れて行ってあげましょうか」
「…………、」

 アンリは一度迷ったあと、首を横に振る。黙り込んだ子供にすっかり困り果てた老婦人の後ろで、老紳士がなにか思いついたように荷物をごそごそと漁りはじめた。そしてアンリの前でかがみ、茶色の紙袋に入った包みを彼女に差し出す。

「さっきたくさんパンを買ってね。私たちでは食べきれないから、手伝ってくれるかい」
「………く、くれ、るの?」
「ああ、もう朝だからお腹が減っているだろう。全部持っていくといい。洋服を汚してしまったお詫びだよ」
「あ、ありがとう……!」

 老紳士はどうやら、アンリが飢えた子供だということはとうに気付いていたようだった。紙袋いっぱいに詰め込まれたバケットやサンドイッチの匂いにすぐ反応し、羞恥心を忘れてそれを勢いよく両手に抱え込んだ。婦人はしばらく気遣わしげに後ろを見ていたが、老夫婦はそのまま去っていった。
 アンリは脇目も振らず路地裏に駆け込み、物陰に隠れてサンドイッチの包みを開ける。中身を見もせずにかぶりつくと中にはロースハムとレタスが入っていて、信じられないほど柔らかく美味しかった。アンリは悲しみも忘れて夢中になって食べた。
 もしかして、祈りが届いたのだろうか。
 父のために祈ったから。体を清潔にしたから。神様がかわいそうに思って、食べ物をくださったのかもしれない。アンリは生まれてはじめてお腹いっぱいに食事をして、堪らなく幸せだった。父よ、この食事の恵みを心から感謝します。この食事と共にする事の出来た私達が、更に心を一つにして、いつも貴方の愛のうちに歩む事が出来ます様に。私達の主イエス・キリストによってーーー。




▲▼



「AMEN(アーメン)!」

 振ったナイフから赤い飛沫が汚れた壁に飛び散る。空々しい祈りの言葉に応える声はなく、光を失い濁った白目が天を仰ぐだけだ。白いワンピースにひとつの汚れもつけていない少女はすうっと胸いっぱいに空気を吸い込み、息を大きく吐いた。
 黒髪の少女―――アンリ・ハーカーは慣れた手つきで死体の腕をとる。そして血の気が失せた肌に触れないよう、慎重に男の手首から時計を外した。屍からはぎ取った腕時計を躊躇いなく着けると、傷一つないガラスに少女の満足げな笑顔が映る。艶やかな黒い革ベルト。金縁の文字盤にはマークジェイコブスのロゴが躍っていた。

「He was a boy, She was a girl〜……」

 アンリはアヴリル・ラヴィーンでも歌いながらナイフを死体の服で綺麗に拭い、若い少女がスキップで惨劇を後にする。上機嫌の理由は単純で、「彼」に貰った鉢植えに蕾ができていたからだ。今朝もちゃんと水をやって出てきたし、欲しいものも手に入れた。凶器はジャケットの背中に仕舞いこむ。今日は何もかも順調だ。
 少女は飲食店の裏階段をリズムよく駆け上がり、野良猫のように雨どいを登って屋根をあがった。霧で覆われた町も上から見下せばよく見える。この有象無象が集うヘルサレムズ・ロットで誰にも気付かれず、お気に入りのワークブーツで歩くのは格別だった。さて昼食は何にしようかと思案していたアンリは、ふと見覚えのある背の高い赤毛を視界の端に見つける。

「!」

 人混みに目を凝らしてアンリは少し小走りになると、やはり黒いスーツの男を並んで歩く「彼」を見つけた。少女は途端に目を輝かせる。トン、と屋根を蹴り、隣の少し低いカフェの二階階段に飛び降りた。突然空から降ってきた人影にウェイターや客がぎょっとした顔をするが、アンリはまったく気にせず大声で叫ぶ。

「クラウスーーーーー!!」

 高い声が街中に響き渡り、赤毛の男と隣りの男がぱっと顔を上げて周囲を見渡す。アンリが両手をぶんぶんと大きく振って位置を知らせると、クラウスはすぐに気付いたようだった。次いで隣のスーツの男も気づいたのか、固まっているクラウスをからかうように彼の背中を叩いた。
 アンリは元気に階段を駆け下り、人混みを掻き分けて彼らの前に走っていった。クラウスは異形が跋扈するHLでも目立つほど巨漢だが、隣の頬に傷のある男も背が高い。小柄なアンリが並ぶとまるで大人と子供のようだった。
 
「ハイ、クラウス!元気ー?」
「……ああ、君こそ……」
「おいおいクラウス、君にこんな可愛いお嬢さんの知り合いがいたなんてな」
「い、いや!彼女は、」
「ああ、いーんだいーんだ! 今日はもう急ぎの用はないし、君もたまには羽を伸ばせよ。せっかく彼女が声かけてくれたんだぜ」

 「野暮なことは言いっこなしだ」と面白そうに笑う男は、早く行けとばかりにクラウスを手でシッシッと追い払うようにする。彼らが何か特別な仲だと確信しているようで、ぞんざいな仕草とは裏腹に彼の目は微笑ましそうに細められていた。クラウスは視線を彷徨わせて躊躇っていたものの、そうこうしているうちに男は再びバシッとクラウスの背を叩いてさっさと去っていく。
 残されたクラウスは、臆さず真っ直ぐ見つめてくる少女に息を詰まらせる。会うのはたったの二回目だが、お互いに強烈な印象を抱いているのは確かだった。

「友達帰っちゃったね」
「ああ……アンリ、その、良かったら一緒に食事でもどうだろうか」
「え!行く行く!あんね、今日絶対ハンバーガー食べるって決めてたんだよ〜!」

 思ってもみない誘いだったのかアンリが目を輝かせ、嬉しそうにハンバーガー屋を指差した。頭にいくつかのレストラン候補を出していたクラウスはつられて賑やかなハンバーカーショップを見上げる。そして手を引かれるままに、服装も体格もちぐはぐな二人が店内に足を踏み入れた。
 普段立ち寄ることのないファーストフード店にクラウスは興味津々で列に並んでメニューを見ている。アンリもしばらく彼の近くにいたが、やがてふらふらと店内に視線をやった。中にはサラリーマン風の男や、仲よさげなカップル、若い女性と多種多様の客がいる。流れていく人垣。息をひそめる。黙り込んだ少女の手首で腕時計がキラリと光った。

「アンリ」
「え?」

 後ろから声をかけられ、アンリはぱっと顔を上げる。するといつの間にかしっかりと両手に紙袋を手にしたクラウスが、その一つを彼女に差し出していた。
 アンリがきょとんと目を丸くする。

「チーズバーガーだ」
「苦手だったかね?」
「ううん、大好き!ありがとう!でもあたし、お金とか、大丈夫なのに……」
「いや、是非ご馳走させて欲しい」

 クラウスの低い声が優しく耳に響く。アンリはじっと彼を見つめたあと、恐る恐る壊れ物に触るように、とても慎重に紙袋を受け取った。
 熱々のハンバーガーを手に店を出ると、アンリはパッケージを開けて女の子らしからぬ大口で美味しそうに食べはじめる。クラウスもそれにならって勢いよくかぶり付くと、彼の大きな一口でチーズバーガーは半分ほど無くなってしまった。唇の端にケチャップを付けるクラウスにアンリはけらけら笑う。すっかり全部食べ終わったころ、アンリはふとジャケットの袖口には小さく汚れがついているのに気付き、「あ」と幽かな叫び声を上げた。

「ああ、あたし、もう帰んなきゃ……」
「そうか。では家まで送ろう」
「ダーメ、まだ咲いてないから!」

 間髪入れずに返ってきた言葉に、クラウスは一瞬きょとんとした顔をする。だがすぐに意味が分かったのか、ぐっと胸を詰まらせたように黙り込んだ。長い前髪と眼鏡の奥で何かを押し隠すような表情は子供が泣きだすほどの迫力があったが、アンリは相変わらず上機嫌でにこにこと笑っている。
 紙袋の上をくしゃりと結んで、少女はいつかのように背を向けて駆け出した。彼女の軽やかな足音に、クラウスの気持ちはいつも置いてけぼりにされてしまう。名前しか知らない少女の一挙一動に男の胸はかき乱される。それがどうしてか男自身にも分からないのが一番厄介だった。

「今度は遊びにきてねーっ」

 アンリは歯を見せて快活に笑う。飴色の瞳が輝いている。ひらひらと揺れる白いスカートが、陽の当たる表通りから路地裏の暗がりに吸い込まれていくのを、男はいつまでも立ち尽くして見つめていた。


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