アンリ・ハーカーは、アメリカでも特に治安の悪いサウスブロンクスに生まれた。母親は早くに亡くなり、父親と生ゴミと一緒に路上生活者同然に育った。スラムのファストフード店はいつも貧困層の溜まり場となっていたが、ハーカー親子にとって2ドル程度のハンバーガーも手の届かない高級品だ。まともな食事といえば週に2回ある教会の炊き出しくらいのもので、それは父親の信心に拍車をかけるばかりだった。

「父よ、あなたの慈しみに感謝していただきます。ここに用意されたものを祝福し、私達の心と体を支える糧としてください」

 幼いアンリには、父はいったい誰に向かってお礼を言っているのかわからなかったが、同じように十字を切ると父は目元の皺をくしゃりと寄せて褒めてくれるので、いつもそうしていた。ゴミ溜めからなんとか食べられそうな残飯を漁って、食中毒に怯えながら腐った生ゴミを貪る子供にとって、ほとんどキャベツと豆しか入っていないようなスープとパンでもよだれが出るようなご馳走だった。そうやって世間の陰に隠れながら、それでもなんとか暮らしていた。

 一体それがどれほどの罪だったのか。

 アンリはその運命の朝、いつもどおりガラクタを集めて作られた粗末な寝ぐらで目を覚ました。穴の空いた天井からは眩しいほどの陽光が差し込んでいる。あたりはとても静かだ。軽く頭を振って埃を払い、子供は鈍い動きで部屋から這い出てーーー地面に倒れ伏した父を見つけた。
 一瞬土の塊のようにすら見える。全身に泥を被り、しかし時間が経って乾いたのだろう。それらは砂になってぱらぱらと髪や袖口から落ちていく。アンリはなにが起こっているのか分からないまま父親に駆け寄って、あ、と思わず声を零した。行き倒れはこのスラムでは珍しくないので、子供でも確かめる術も知っている。小さな指が男の眼球に触れても何の反応も返ってはこない。呼吸をするための胸も動かない。土で汚れていない部分の肌は蝋のように白く、冷たく、ただ血と脂が浮いて光っていた。
 アンリは暫く動かずにそこでじっとしていたが、ふらふらと立ち上がって父の体を仰向けにし、動きの固まった指をなんとかほどいて両手を組ませた。

「いつくしみ深い、神である主よ………」
「あなたが……つかわせたキリストを………信じて……人生のたびを、おわった……を、……あなたの、手に………」

 いつか誰かの告別式で神父が言っていた言葉を、覚えている限りになぞる。父がいつも大事に持っていたロザリオは首からなくなってしまっていたから、アンリは仕方なく土埃に指で十字架を描いた。
 父は―――敬虔な信者だった。生まれた頃から神に祈っていたわけではないらしいが、信仰を知ってからは主の従順な僕であり続けた。教えに背くことはしなかったし、欲を持つこともなかった。しかしサウスブロングスの腐敗した泥に足を取られて、ついに彼は神に見放されてしまったようだ。永遠の命を夢見て希望のうちに人生の旅路を終えた者には決して見えない。苦悶に満ちた死に顔はこの世の全てを呪う形相にすら見える。
 うつろに祈りを終えたアンリは、はじめて神に問いかけたくなった。神様、お父さんの祈りは届いていましたか。お父さんは何のために祈っていたんでしょうか。わたしの声は届いていますか。これこそが種だった。哀れな子羊を縋りつかせ、取り除くべき厄災の種だった。

 しかし、神からの返事はない。













 太陽の光が届かない路地裏には、この世の厄災が潜んでいる。表通りを歩く者はそれを知っているから入り込まない。ゴミ箱とがらくたが積まれた路地の真ん中で、建物のボイラーが忙しなく湯を作っている。アルミ製の安っぽい扉の向こうではザアザアと誰かのシャワーの音が響いていた。
 キュッとコックを締める音のあと、まもなく一人の少女がずぶ濡れのままシャワールームから出てきた。彼女はきょろきょろと部屋を見渡したあと、部屋干しにされたタオルの中の汚れていない一枚を手に取って体を拭く。それから備え付けのクローゼットから服を何着も引っ張り出して床に放ってを繰り返し、やっと気に入りの一枚を見つけたらしかった。ベルトをしっかりと留め、大きめのスタジャンを羽織り、黒いワークブーツを履く。細身の少女が着るチュールワンピースはバレリーナのようだったが、足取りはまるで子供のようだ。

「ランチどうしようかなあ」

 障害物をまたいで少女は路地に通じる裏口のドアをひねる。目の前にむっと霧が立ちこめるが、気にも留めないで機嫌よくブーツの踵を鳴らした。新しく手に入れた服と靴のおかげで足取りは軽い。彼女はポケットに手を突っ込んで、昼ご飯をどうするかをのんびり悩んでいた。
 やがて表通りに差し掛かったとき、ヘルサレムズ・ロットではあまり見ない高級車が停まっているのが見えた。ブーツの歩みが止まる。その近くには2mは越えそうな大男が窮屈そうに白のワイシャツとウエストコートに身に纏い、腕にいっぱいの花を抱えていた。一目で佇まいが普通の人間と違うのが分かる。薄暗がりからじっとそれを見つめていると、視線に気づいたのか男が顔を上げた。牙の目立つひどく強面の男だった。

「こんにちは」
「……! こんにちは、お嬢さん」

 男は曖昧な笑みを浮かべる少女にいささか戸惑っているようだった。女性や子供に怖がられる容姿をしているのは分かっている。筋骨隆々の大男に初対面から親しげに話しかける人間はそう多くない。だからこんなことはとても珍しく、男はほんの少し―――それこそ彼の従者なら分かるであろうくらいに声を弾ませて答えた。
 彼女はサイズ大きい洋服のせいでかなり小さく見えるが、子供とはっきり言えるほど幼くもない。霧からの陽射しで表通りは明るく、少女の立つ路地は暗く、ワンピースだけが浮き上がっているように際立って白かった。

「お花きれいだね」
「ああ、仕事場に飾ろうと思っていてね」
「いいなあ」

 彼女の濡れたような真っ黒の瞳が、宝物を目の前にしたかのようにうっとりと花々を見つめる。男はメガネの奥で目を細めた。この少女から真意が読めないからだ。いや、まるでまだ未発達な、とても単純な欲求だけは見て取れる。それは、ショーケースに並ぶおもちゃを眺めて「あれが欲しい」と目をきらきらさせている子供にひどく似ていた。
 それが彼女の姿と何もかもちぐはぐで、どうしてか彼の胸をチクチクと引っ掻いていく。男は静かに考えを巡らせたあと、少女が再び口を開く前に分厚い手のひらで柔くそれを制した。きょとんとした丸い瞳に牙を持つ男の顔が映る。

「ここで待っていてくれたまえ」
「?」

 男は車のトランクに花を大事に積み込むと、不用心にもキーどころかドアも閉めないまま背を向けてどこかへ行ってしまった。少女の頭に一瞬「花を持ち去ってしまおうか」という考えが浮かんだが、彼のここで待つようにという言葉を思い出して足が止まる。
 しばらくすると男が真っ直ぐに路地へ戻ってきた。人混みに紛れていても頭ひとつふたつ飛び出しているので見つけやすい。少女は所在なさげにポケットへ両手を突っ込んで、驚いたことに一歩も動かずそこで待っていた。その視線は男の抱える小さな白い鉢植えに釘付けになっている。

「これを君に」
「……? 葉っぱ?」
「まだ枝と葉しかないが、じきに花が咲く。日当たりのいい場所に置いて、毎日コップ一杯の水をやるだけでいい。花付きがいいので手間もかからずよく育つ」
「なんのお花?」
「それは……秘密にしておこう」
「えーっ!なんでー!」
「楽しみにしているといい」
「けち」

 口で不満を言いながらも、男の手から鉢植えを受け取った彼女の瞳は花を見たときよりも輝いている。男はふっと目元を柔らかくして微笑みらしいものを浮かべた。鋭い眼光のそのまた奥には意外なほど優しい瞳がある。春に柔らかい土から顔を出す、瑞々しい新芽に似た明るい緑色。
 少女は両手で鉢植えを大事に抱え、180度回転させてみたり、上から枝を眺めたり、持ち上げて底を見上げたりと忙しなかった。小さな鉢植えといえどそれなりに重さはあるので、男は危なっかしい手つきをハラハラと心配そうにしている。それに気付いた彼女はなにかを思い出すように目をきょろきょろさせて、ぱっと弾けるように笑顔を見せた。

「ありがとっ」

 屈託のない目を細くして、嬉しそうに、得意そうに、罪もなく無邪気にニコニコと笑う。そこにはなんの翳りもない。弾んだ気持ちを全身で表しているのか、軽い足取りで少女が路地裏に駆け出していく。
 男は言われた礼に返事を返すこともできず、離れていく華奢な背中をただ呆然と見つめた。ワークブーツの踵が機嫌よく角を曲がる寸前、少女がひょっこりと顔だけ出して大きな声を路地に響かせた。

「あたし、アンリ!おにーさんはー?」
「………、クラウスだ!」

 男の低く張りのある声はしっかりと届き、アンリは角からピースサインを見せたあとひらひらと小さな手を振って暗がりに消えていった。巨体の男―――クラウスはしばし棒立ちになり、その場から動かない。アンリの眩しい笑顔が小さく爪を立てて、彼の胸に細かな引っ掻き傷を残していったようだった。霧の中でさえ届く真上からの太陽が、男の赤毛をのん気に照らしている。
 やがて従者に声をかけられ、クラウスはやっと車に乗り込んでいった。ここは元ミッドタウン、 マンハッタン中東部。崩落後もなおチューダーシティの名前を保つ、一般人にはとても手の届かない高級住宅街である。




▲▼




 路地裏に戻ったアンリは、シャワーを浴びたあの家へと足を進めた。靴を汚さないように気をつけて床を歩き、ベランダ前の一番日の当たる棚の上に鉢植えを置く。それからダイニングに置きっぱなしだったグラスに水道水を注いで土にたっぷりとかけた。鉢底から溢れ出て、真っ白のボビーワゴンが土混じりの水で汚れていく。アンリは満足げにグラスを置いた。
 彼女は次に床からなにかを拾い、もう一度裏口から路地へと出る。ボイラーのさらに奥。ゴミ箱とガラクタに埋まるように身を隠しているぼさぼさの髭面をした浮浪者を見つけ、アンリは躊躇いなく声をかけた。

「こんにちは」
「………金でも恵んでくれるのかい」
「ううん、でもお仕事しない? 掃除してほしいの、そこのドアのとこ。これおじさんにあげるからさー」

 貧困に疲弊しきった男は、少女の手の中で光る指輪に驚いて目の色を変えた。銀色のリング。一面に埋め込まれたダイヤがキラリと光を放つ。婚約指輪にでもなりそうなそれは傷一つなく輝き、値打ちがありそうだということはボロを纏った浮浪者にでも分かった。
 男はむしゃぶりつくように少女に飛びかかろうとしたが、アンリは予想していたのかひょいと容易くそれをかわす。それから男の腕を掴むと力任せに地面に叩きつけ、背中をワークブーツの靴底で思いきり踏みつけた。ぴくりとも動けない。折れそうな腕や足からは想像もできない力に、男は顔を真っ青にして即座に叫んだ。

「あ、わ、分かった!! やる、やるから!やらせてくれッ! じ、慈悲を……!」
「いーよ!」

 明るい声色の言葉どおり、男はすぐに解放される。報酬をケチる気はないのか、件の指輪はなんの問題もなく渡された。見れば見るほど値打ちがありそうだ。男は震えながらそれを手のひらに乗せ、絶対に手放すまいとばかりに強く握りしめた。
 少女の依頼はこうだ。部屋をきれいに掃除すること、服や物品には触らないこと、使えなさそうなものは処分すること、自分は夜には戻るので、それまでに終わらせて欲しいということ。彼にはそれがとてもこの指輪に見合う仕事とは思えなかった。旨すぎる話には裏がある。決して馬鹿ではないその男は、機嫌よく去っていった女を見送ってから、慎重にドアを開け―――ようやくすべてを「理解」した。

「ヒッ………」

 それは、ヘルサレムズ・ロットという非日常的な街に身を置く者ですら絶句するほどの惨劇だった。床じゅうに広がる血溜まり。白い壁に飛び散った飛沫はひとつやふたつではない。折り重なるように倒れ伏す男女は、恐怖に顔を凍りつかせたまま硬直しこと切れていた。銃痕も薬莢もない。凶器らしいものは、見渡しても部屋に一つしかない。
 まさかあの少女が、それこそ力任せに無造作に、この血の狂宴と呼ぶべき光景を作ったのだろうか。
 男は思わず後ずさり、固く握っていた手から指輪を落としてしまった。慌てて床を見ると指輪は血の海を転がっていき、死んだ女の垂れた指にコツンと当たって止まる。男はその指輪の持ち主が一体誰だったのかを直感的に悟り、この場から逃げ出したい衝動に駆られた。けれど無理やり歯を食いしばり、やけくそになって指輪を拾う。

「、神よ……」

 神を心底信じたことなどなかったが、あまりのことに思わず祈りが口をついて出た。深呼吸をして、なるべく死体の顔を見ないようにしながら、男は請け負ってしまった仕事をはじめる。今さら警察に届け出しても事情聴取の挙句に指輪を没収されて一銭にもならないだろう。それよりも悪いことが起きるならば、きっとここに死体がもう一つ増える。早く終わらせてさっさと金を作って、こんな冒涜的な場所から一刻も早く抜け出したかった。
 惨劇の中央には奇妙に折れ曲がった二本のナイフが交差し、一体どれほどの力で押し込めばそうなるのか、二体の屍を完全を貫いて床に突き刺さっている。それはまるで神への祈りを嘲笑うように、歪な逆さ十字を成していた。




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