私の勤める喫茶店はいわゆる純喫茶というやつだ。メニューはすごくシンプル。飲み物はコーヒー、紅茶、ココアにジュース。食べ物はサンドイッチが何種類かと、バターとシロップだけのふかふかしたホットケーキ。ついでにゆで卵。店長がいるときはたまに小さな銀のエスプレッソメーカーで淹れる「本日のコーヒー」があったりするけれど、バイトはもっぱらボタン一つでできる機械式だからやることは少ない。
 18歳。高校卒業間近。進路は未定。バイトは準レギュラー勤務。特別悪いことをしたこともないけど、別段いいことをしてきた人生でもない。仕事場が不良の溜まり場になることと、親に出て行け自立しろと言われることを恐れながら、喫茶店でテーブルを拭く日々を過ごしている。

(人少ないな〜、まあ平日だしね)

 学校が終わってすぐに出勤すると時間はいつも17時頃になる。市内の中心部からはやや離れた場所にあるので、休日ならともかく平日の夕方は入りが少ない。散歩帰りのお爺さんが夕刊を読みながらコーヒーをちびちび飲んでいたり、少しガラの悪い感じの高校生が2人でジュース片手にあれこれ喋っていたりするくらいだ。
 この時間はやることがなくて、ついぼんやりしてしまう。今日のごはんなんだろう。暖かいものが食べたい。西側の大きな古い窓は傾いた太陽でオレンジ色になっている。窓際の席に座るお客さんのシルエットをなんとなく見ていると、ふとその横顔に覚えがあることに気付いた。
 あ、あの人最近よく来る人だ。
 こんな町はずれの喫茶店に来る顔はだいたい決まっていて、あまり見ない人がいるとけっこう目立つ。若い男の人だ。二十代くらいだろうか。黒髪にレザージャケットを着ていて、眩しいのかサングラスはしたまま。何をするでもなく頬杖をついて外を見ている。白いカップに入っているのは確かブレンドコーヒー、砂糖とミルクはなし。2杯目は無料のやつ。

「あっ、」

 じーっと見ていた所為か、ぱっとその人が振り返った。サングラス越しに目が合った気がしたので、ノーリアクションもどうかと思ってぺこりと頭を下げる。するとその男の人はちょっと気取ったようにふっ、と笑った。
 おあ、と小さく変な声が出る。
 この喫茶店に来るのはただ休憩場所が欲しくて来ているような人ばかりだから、店員の愛想笑いにはじめから期待なんかしていない。だから私も1円にもならない営業スマイルを無理やり浮かべないで済む。そんなだから、男の人に微笑まれるなんて日常生活でもめったにない大事件だ。ちょっとドキドキしてしまう。

「おい! 水!」
「あ、はぁーい」

 高校生の一人がグラスを持って私を呼ぶ。そうそう、このお店のお客さんはたいていこんな感じ。最寄りの高校がこの辺でも一番荒れている学校だから、流石にもう慣れてしまった。氷水の入ったピッチャーを片手に席に行って、失礼しますと2つのグラスに注ぐ。少し浮かれていたせいか、うっかり袖口に当てて手元のグラスを倒してしまった。
 がしゃん、とガラスの割れる音。床に水が零れる。さっと血の気が引いた。

「すいません!あの、濡れて……」
「濡れたっつーの!うーわ最悪」
「ちゃんと仕事しろよボケ!」
「すいません、拭きます!」

 一気に目が覚めた。慌ててエプロンのポケットに入れた布巾で机を拭いていると、機嫌が悪かったのか金髪の高校生が凄んだような怒鳴り声をあげる。大声を出されると反射的に体が縮こまるが、実を言うとこれも別に珍しくはない。彼らはたぶん店員を殴ったり店を荒らしたりする度胸はないことを私は知っている。
 だからわりと平気なんだけど、そんなに怒らなくても……いや、私が悪いか。もしかしたらお気に入りの靴だったのかもしれない。こちらが無抵抗に謝罪を繰り返す機械になったのを見て明らかに調子に乗ってきたその高校生は、さらに口汚く私を罵ってきた。ついてない。
 と、そこに介入する声がひとつ。

「おいおい、そんなに怒鳴るなよボーイズ。余裕がない男はレディに嫌われるぜ……」
「へ?」
「……はっ!?」
「なんだこいつ!」
 
 気づけば後ろに立っていたその人は、先ほどまで窓際の席に座っていたお兄さんだった。思わず呆気にとられる。そちらを見て口を開こうとした2人の不良に構わず、男なら女の子の失敗の一つや二つ可愛いもんだと笑って許してやるのがクールな対応だとか、俺の生き様を見て男とは何たるかをうんぬんかんぬんと息もつかせず喋り倒した。
 高校生たちは突然入ってきた年上の男がわけの分からないことをまくし立てるものだから、一気に勢いをなくしてお互いに顔を見合わせ、すごすごと席を立って店から出て行った。お兄さんがパッと見で体格が良いことも彼らを怯ませた要因かもしれない。目の前の展開について行けずぽかんとしていたら、お兄さんはしゃがみ込んだままの私に目線を合わせてくれたようだった。

「大丈夫か?」
「えっ? あ、全然大丈夫です!すいません、あの、色々と」
「なに、構わんさ。目の前で困ってるガールがいたら助ける以外の選択肢など俺には用意されていないからな……!」

 なんかすごい人だ。
 ポーズをばっちり決めながらの台詞は芝居かかっている。格好がハードな感じだからクールな人なのかと思ったら意外と面白い人なのかもしれない。割ってしまったグラスの破片を拾い集めていると、お兄さんは自然な動作で片付けを手伝ってくれた。お客さんにそんなことをさせるのは、と思ったが親切にしてくれているのに断るのも忍びない。
 かちゃかちゃと二人で無言で床を片付ける。彼が何度かこちらを見た気がしたが、気付かないふりをしてしまった。緊張してるかもしれない。ちょっと手が震える。あんな風に女の子っぽく助けてもらったのなんてはじめてだ。

「すいません、ほんと。えっと、私は全然大丈夫なので、えへへー。お恥ずかしいところをお見せしました……」
「怖かっただろう?」
「え」
「怒鳴られるのは誰だって怖いさ」

 私の手はまだ少し震えてる。お兄さんはこっちを見ずに、危なっかしい手から割れたガラスを遠ざけてちり取りに入れてくれた。もしかして彼は私が怯えているのに気付いて助けに入ってくれたのかもしれない。すっかり綺麗になった床を見て、今更さっきの恐怖が僅かに体に戻ってくる。鼻の奥がツンと痛くなった。やばい、ちょっと泣きそうだ。涙声になる前にお兄さんにお礼をしておかなければ。

「ありがとうございました」
「ふっ、気にするな。当然のことをしたまでだ! それじゃあな子猫ちゃん」
「んふっ」

 こ、こ、子猫ちゃんて!
 涙が引っ込んだ代わりに変な笑いが漏れそうになったので口元を両手で覆う。なんだこの人。なんかすごいぞ。お兄さんはサングラスを外しつつばっちり決め顔でキザな台詞を恥ずかしげもなく言う。あ、サングラス取ったとこ初めてみた。それじゃあなという言葉通りもう帰ってしまうようなので、なんとなく出口の扉まで追いかけてしまった。普段は滅多にそんなことをしないが、お見送りだ。
 カラン、という錆びたドアベルの音。ライダースジャケットが真っ赤な西日に光っている。このまま振り向かないで行ってしまいそうだったので、思わず口を開いてしまった。背中に向かって大きめの声で言う。

「あのう、また来てくださいねっ」
「……! あ、ああ!」

 お兄さんは足を止めてちょっと驚いたような顔で振り向いてから、嬉しそうににかっと笑顔を浮かべた。夕日に負けないくらい眩しい。フォックスタイプのサングラスからは想像できない可愛いはにかみ笑いに、コトンと胸の奥でなにかが動いた。
 わたし、名前も知らないのに。
 言い訳を重ねてももう遅い。するべき相手はもうここにはいない。その背中が見えなくなるまで見送って、頭の中でさっきの笑顔が何度も再生される。そんなのずるい。全身に西日を浴びること数分、買い出しから戻ってきた店長に心配されるまで、私はそこから一歩も動くことができなかった。






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