今日のHLは平和そのものだ。
 皮肉の効いた揶揄でもなく、ヘルサレムズ・ロットは本当に静かだった。少し目を離せばやれテロリストだやれ神性だ堕落王だ吸血鬼だと騒がしいこの街には珍しいことだ。とはいえまったく何もないといえばそうではなく、暴動の予兆は存在する。調整役と打ち合わせをしてあれこれ手回しをし、かつ目立たないよう情報をかき集める―――その段階では仕事があまりない三人、ザップ・レンフロ、レオナルド・ウォッチ、ツェッド・オブライエンは、事務所で暇を持て余していた。
 ボスと番頭は忙しいのか具体的な指示はまだ飛ばしておらず、ただただ待機を命じられた三人は携帯ゲーム機を手に取っていた。しかしやがてそれも飽きてしまい、ついにレオナルドが今どきあまり見ないトランプを持ち出したので、彼らは久々にババ抜きに興じることにした。懐かしさも相まってなかなか盛り上がり、退屈で不機嫌になっていた年長のザップの口も軽くなったようだ。

「スターフェイズさんとこのよ〜〜〜、たまに来るアンリちゃんているだろ」
「ああ……」

 突然そんなことを言い出した男に二人は気の抜けた返事をする。ザップの話に脈絡がないのはいつものことなので、それほど特別なことでもない。特に女性の話題が彼の口から出たときはたいていろくでもない話である。ツェッドと彼の手札からジョーカーを避けて一枚取ったレオナルドが、カードを二枚場に捨てながらおざなりな返事をした。

「あの何者かよく分からない人ですね」
「それがどうかしたんすか?」
「たぶんかなり若いんだけどよ、なんつーかこう妙に色っぽさがあるんだよな……はっきり言ってエロくね? 彼氏いんのかな?」
「うわ……」
「聞くんじゃなかった……」

 二人はやっぱり、と早々に反応を返したことを後悔していた。ザップの言葉はとにかく歯に衣着せぬ直情的で、はっきりイエスともノーとも言うのが憚られる。ザップはリアクションの芳しくない二人に口を尖らせ、レオナルドの手札から適当に引いて、悔しげに葉巻を噛む。レオナルドがふふんと得意そうに笑った。
 アンリというのは、スティーブンの部下の少女だ。いや、実際に部下なのかは分からないが、そういう行動をとったことがある。ツェッドの印象どおり彼女はいつの間にかふっと現れて、そうかと思えば戦場にはいないという神出鬼没の人物だった。もっともザップにとって大事なのはそこではない。あの少女の引き締まった腰や足首。キュッと上がった尻の丸みや、しなやかに伸びた脚のほうがよっぽど重要だ。熱弁するザップを後輩二人は呆れ返った顔で見ていた。

「仲間の身内に手出して泥沼とか勘弁してくださいね、絶対助けませんからね。ていうかあの子もライブラのメンバーなんすか?」
「あー いや、スターフェイズさんの姪っ子らしい。たまにちょっと仕事手伝ってるみてーだけど」
「姪っ子?!」
「ビビるよな」

 今まで話半分に聞いていたレオナルドはぎょっとして顔を上げる。まさか親族だとは。姪っ子ということはスティーブンには少なくとも兄弟がいて、さらに子供がいることになるではないか。HLにアンリの家族も住んでいるのか、それとも……そこまで想像力を働かせたレオナルドはふと我に返りこめかみを掻いた。他人の家庭のことをあれこれ詮索するのはあまり良いことではない。
 確かにアンリはスティーブンと仲が良くみえる。クラウスにもたいそう懐いているが、顔に傷のある叔父ほどではない。歳の離れた男女だからかあまり似ているとは思わないが、言われてみれば、肌やすこし癖のある髪にはどこが面影があるかもしれない。うんうんと頷くレオナルドの横で、ツェッドは何も言わずにザップの手札から一枚引いた。

「……だから細かいことは調整屋のほうに任せよう。奴らだって素人じゃない、広まらないよう上手くやるさ」
「うむ、ではそちらは手筈通りに。しかしこのままでは地下オークションのほうが手が薄くないだろうか」
「それなんだが、警官隊から連絡が……」

 その時、片手に数十枚の書類を抱えたクラウスとそれに続いたスティーブンが事務所へ慌ただしく戻った。どうやら何か有用な情報が入ってきたらしい。二人は同時にいくつもの案件の話をしているらしく、三人にはまだ断片的にしか理解できない。出番はまだ先のようだった。面白くなさそうに頬杖をついたザップが、ふと顔を上げる。
 事務所へ脚を踏み入れたのは彼らだけではなかった。背の高い二人に隠れていた人影がひょっこりと顔を出す。癖のある黒髪。噂をすれば影ーーーとは言うが、今まで話題の中心だった人物の登場に三人は驚いて手を止めた。スティーブンの姪であるアンリは顔の左側の髪を梳いては耳にかけたり、膝を曲げてショートブーツのつま先を床にトントンと軽く打ったり、あきらかに退屈そうだ。レオナルドやツェッドが未だに固まっているあいだ、プレイボーイの行動は早かった。

「(よっ……と!)」

 ちょうど上司二人に見えない角度で、ザップはソファから軽く身を乗り出して少女へと自らの血を伸ばした。それに気付いた後輩たち慌てて不届き者のベルトを引っ張ってソファに戻そうとしたが、下心に動かされている男は膝と足首でしっかり身体を固定してテコでも動かない。細い糸状になった血液は軽く少女の耳元をくすぐって、アンリはぱっと彼らのほうを振り返った。
 アンリは血液の紐に目を丸くしていたが、それが悪戯だとすぐ分かったようだった。少女は指先で糸を弄んだあとにピンっと爪弾き、大人しく男の元に戻っていくそれに手を振って、それから視線を寄越して。
 向けられたとろけるような微笑み。
 レオナルドやツェッドだけでなく、女慣れしたザップでさえ言葉を失ってしまう。まるで彼女は自分に恋でもしているんじゃないかと思わせるような、ぞくっとするほど魅力的な笑顔だったからだ。

「……分かりました。あれ完全にスティーブンさんの身内です。なんかそっくりっす」
「だろォ?顔はそんな似てねーんだけどな。雰囲気がな。大勢男たぶらかしてそーな感じな」
「失礼ですよ」

 レオナルドが確信を持って呟いた言葉に、ザップはやっと分かったかとばかりにバシッと後輩の背中を叩いた。まだ心臓が落ち着かない。あんな笑顔を向けられたらたいていの男は目が眩んでしまう。レオナルドだって彼女がスティーブンの姪だということを知らなければ、いとも簡単に恋に落ちてしまっていたかもしれなかった。
 ツェッドはばらばらになってしまったトランプのカードをため息交じりで集めていると、ザップは「魚類には分かんねーか?」とからかうように笑う。ツェッドの表情を読ませない顔立ちが微妙に歪んだが、レオナルドにはそれが怒りより躊躇いによるもののように見えた。

「……こんなことを言うと笑われるかもしれませんが」
「お?」
「僕は彼女が少し恐ろしい」

 沈黙が落ちる。
 人類(ヒューマー)であるザップとレオナルドには分からないのかもしれない。彼女の姿は完璧に人類そのものだ。だが気配といえばいいのか、纏う空気といえばいいのか―――吸血鬼に造られたツェッドだからこそ、あの少女がどこか人ならざる者ではないかと本能的に察知することができた。満月のような妖しい金色の瞳。あれこそ異形のあかしだ。曖昧にただ恐ろしいとしか形容できなかったが、それ以外に言いようがなかった。
 当然、そんなことを言いだしたツェッドにザップとレオナルドはぽかんと口を開く。だがそれも一瞬で、ザップの目元は楽しげに細まった。普段はまったくといっていいほど関心を示さない弟弟子がやっとオンナにまともなコメントしたと思ったら、こともあろうに「恐ろしい」とは。堪えきれずにブフッと吹きだした兄弟子を、ツェッドは明らかに不愉快そうに睨みつける。

「なんだオメーあれか? ギャルとかイケイケの女怖くて苦手なタイプか?だっせえ!オス失格!一生童貞!!」
「違いますもういいです」
「ともかくケツと足がいいんだよな〜〜」
「いやスティーブンさんの姪っ子だったら尚更やめたほうがいいですよ、ていうかやめなさいよアンタ。確かに可愛い子っすけど」

 喧嘩をはじめそうな二人をいなし、レオナルドはトランプを切って再び配り始める。上司たちの打ち合わせは今少し続きそうだ。ザップの下世話な褒め言葉につられてレオもちらりとアンリのほうを見たので、ツェッドもなんとなく再び顔をあげる。彼女は既に背を向けて後ろに手を組んでいたが、その代わりこちらを見ていたスティーブンと三人はばっちりと目が合った。
 男はにっこりと、姪っ子そっくりの魅力的な笑顔をつくったが、彼の黒い瞳が笑っていないことなど一目瞭然であった。アンリの時とは違うぞくりとした震えが走る。三人は首裏に冷気が這い上がるのを感じ、勢いよく自分の手札に視線をそらした。怖い。怖すぎる。油の切れたブリキ人形のようにぎくしゃくと白々しいババ抜きをする彼らの後ろで、くすくす、と誰かが忍び笑ったような声がした。

 ▲▼

 行動を起こすにはまだ早いとみて、スティーブンは別の用事で一足先に事務所をあとにした。数十分の待ちぼうけにも大人しく耐えていたアンリは、角を曲がった瞬間に男を見上げて視線でおねだりをする。スティーブンは慣れたように身体から腕を離すと、するりとしなやかな腕が絡んで抱きついた。
 賑やかな市内のなかでも、裏通りは人気が少ない。やっと構ってもらえたアンリが楽しそうに微笑む。スティーブンにはそれが無邪気な少女の微笑みではなく、男をからかうための少し意地の悪い笑みに見えた。

「スティーブン、さっき睨んでたでしょ」
「ちゃんと笑ってただろ」
「ヤキモチやいた?」
「……正直言って、自分がどういう心情でああいう行動を取ったのかよく分からない」
 
 アンリになにを隠しても今さら無駄なことだった。スティーブンは実際、あのとき上司として後輩を窘めたのか、それとも男として彼らを牽制したのか自分でも分からなかったのだ。確かに「ヤキモチ」と呼んでも間違いはないかもしれない。正直に白状したせいで少し情けない顔をした男に対して、少女はくつくつといかにも嬉しそうに喉を震わせて、彼の腕に抱きつく力を強くした。
 アンリが他の人間とスティーブンを完全に区別しているように、彼にとっても彼女は色んな意味で特別な女の子だ。それを頑なな男が認めるたび、許容してしまうたび、少女は際限なく受け止める。アンリは金色の瞳をきらきらさせて、背伸びでスティーブンの耳の付け根にちゅっと可愛らしいキスをした。よくできました、と言わんばかりのそれに、男は顔を赤らめて逃げるように早足になったのだった。


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