時刻は朝の5時を回り、窓の外では街が朝霧に包まれている。スーツのジャケットだけは辛うじて脱いで放りだし、ネクタイを緩めた瞬間までは覚えているが、そこから意識を失ってしまったらしい。ベッドのシーツに倒れこんだ格好のまま身動ぎもせず熟睡してしまい、体は痛いが頭はすっきりしている。ついでに、自分が寝る前にやってしまった失態もありありと思い出した。
 これは大変まずい。
 胃が重くなるような気持ちを抱え、足音を殺してリビングに向かう。家政婦であるヴェデッドが手を入れているため部屋は整頓されていたはずだが、廊下はまるで荒れ狂った獣が通ったかのようにぐちゃぐちゃになっていた。スティーブンはいよいよ頭を抱えそうになりながらドアを開け、恐る恐る中に呼びかける。

「………アンリ?」

 返事はない。
 おや、と首を傾げて歩を進めると、彼女は暴れ疲れたのかソファで静かに眠っていた。アンリの体格なら十分に足を伸ばして寝れるだろうに、わざわざ端に寄って窮屈そうに丸まっている。スティーブンは揺らさないようゆっくりと空いている場所へ腰を下ろし、膝に頬杖をついてアンリの寝顔を眺めた。
 こうしていると本当にただの女の子にしか見えないから不思議なものだ。人間型に変身(メタモルフォーゼ)するときスティーブンの姿をすこし参考にしただけあって彼らはどことなく雰囲気が似ているし、表向きの「姪」という紹介を誰ひとり疑わない。スティーブンが手を伸ばして頬にかかった癖のある黒髪をはらってやると、切り傷のような目がすうっと開いて彼を見据えた。男の動きが止まる。アンリが唇を開いた。

「"あっちに行け"」
「………!」

 それは昨夜のスティーブン台詞である。
 仕事が複数ブッキングしていて目が回るような忙しさだったから、もう今にも倒れそうなほど疲れていて、帰宅したそばからまとわりつく少女についそう言い放ってしまった。アンリにとっては彼の都合など知ったことではない。スティーブンが自分を拒否したというのが純然たる事実なのだ。それをそっくりそのまま言い返されてはぐうの音もでない。
 寝そべったまま低く睨みつける異形の金眼は、怒りで爛々と輝いている。スティーブンは蛇に睨まれた蛙のように甘んじてそれ受け入れるしかなかった。彼女のしなやかな手が彼のネクタイ伸び、乱暴に解いて、無理やりシャツを脱がそうとしたあたりで男は躊躇いつつもさすがに口を挟んだ。

「おいおい」
「いいんだけどね、べっつに。わたしだっていつでも異界に戻れるしい」
「悪かったよ、アンリ。僕が悪かった。僕には君が必要だよ。だからどこかに行くなんて言わないでくれ」
「もっとすごいこと言って」
「……君がいないと生きていけない」
「ふ、」

 アンリが少し笑みを浮かべたのを見て、スティーブンはほっと肩の力を抜いてソファに寝そべった。しかし女物の甘ったるい香水が染みついたシャツはお気に召さなかったらしく、結局引っぺがされて丸めて投げられる。ハイブランドでもお構いなしの様子に苦笑いを浮かべるしかない。
 されるがまま上半身になにも着ていない状態になったスティーブンを見下ろし、アンリはへこんだ腹に跨るように乗っかって、自身のリブセーターの裾を豪快にめくりあげる。スティーブンはてっきり彼女が「そういう気」になったのかと思ったが、にんまりと笑ったタンクトップ姿のアンリはそのまま胸板にしなだれかかっただけだった。

「寒い?」
「いや?けっこう暖かいよ」
「じゃあこのままがいい」

 すべすべとした小麦色の頬を寄せ、鼻先で首筋やうなじの皮膚をなぞる仕草は、動物が自分の匂いをすりつけているのに似ている。柔らかな毛が顎下をくすぐるので、スティーブンは喉を鳴らしながら両手で締まった腰をつかまえて裏表をひっくり返す。ちょうど寝転んだまま後ろから抱きしめるような体勢になったころには、アンリの機嫌はすっかりいつもどおりになっていた。
 この少女は魔物のごとき色香を纏うこともあれば、こんな風に無邪気な子供のように振舞うこともある。スティーブンは振り回されっぱなしだ。けれどアンリとこうして戯れに触れ合っていると、仕事で飲んだ酒のように悶々と重かった気分が嘘のように晴れていくのも事実だった。スティーブンは彼女の丸い頭を撫で、つむじに優しく唇をうずめる。

「冷たくして悪かった」
「うん。許してあげる。でもいつもの100倍くらい甘やかしてくれないとヤダ」
「100倍!? いつもかなり甘やかしてるつもりなんだが……もっと?」
「もっと!」
「分かった」

 スティーブンは至極真面目な顔でアンリに口付ける。少し驚いた様子の彼女の頬を両手で包み、額や伏せた瞼、鼻先、顔のパーツをなぞるように次々とキスを落としていくと、アンリははしゃいだようにぱたぱたと足を跳ねさせた。傷のある伊達男が上半身裸のまま、まだ真面目くさった表情でチュッとわざとらしく音を立てる。アンリは可笑しくて堪らないというように高い嬌声を上げた。
 キスを受けていた少女がふと顎を上げて手を伸ばし、スティーブンの唇をふに、と押してなぞる。きょとんとする彼の唇はよく動かしたからか少し荒んでいて、アンリは満足げにそこに自分の唇を重ねた。それは色っぽさのない握手のようなキスだ。

「チューしすぎて唇が荒れるって、なんか、いいね。"親しい仲"っぽい」
「親しい仲だろ?」
「んー!」

 嬉しそうに笑うアンリをスティーブンは目を細めて両腕で胸に閉じこめる。本当なら死ぬまでこんなことは起こりえないはずだった。スティーブンは自分の生き方に他人の同調を諦めているせいで、幸せな結婚や家庭を持つことからは最も遠いところにいる人間だ。そうして誰の手を取ることもなく、あとはゆっくりと終わりに向かって進んでいるだけ。
 そういう男にとって、抱きしめても後ろめたさのない相手というのは、そういない。
 だから先ほどの言葉は、あながち不機嫌なアンリを宥めすかすためだけのものではないかもしれなかった。子供のように移り気な彼女がその異形の目を面白そうに細めて、もう少しここにいてやってもいいかと笑うたびに、スティーブンは胸を撫で下ろしているのだから。

「さて、寝なおさなくていいのかい」
「んー、ん、連れてってくれる?」
「もちろん」

 しなやかな身体を抱き上げると、首たけに浮かれた腕が回された。アンリはホットパンツのボタンを外して行儀悪く廊下に放り投げる。点々と衣服を脱ぎ散らかしながら、二人はピクニックに行くような足取りで寝室に向かう。霧を抜けて正しい朝日が差し込んだが、スティーブンはカーテンを隙間なく閉めて背を向けた。
 悪いけど、それはいらないよ。


 


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