スティーブン・A・スターフェイズの背後にはいくつもの影がある。比喩的な表現ではない。表向きは社交好きの会社員として人に囲まれ、裏では暗躍させるための駒をいくつも懐に隠し持ち、またさらに深淵では誰にも見せぬ闇を従えている。ともかく一筋縄ではいかないというのが、ダニエル・ロウの持つ彼への印象だった。
 そういう男だからこそ融通も利く。
 例えば彼の頭領であるラインヘルツ家だとかいう高貴な家柄のお坊ちゃんは、絵に描いたような頑固一徹。扱いやすくはあるが深い話を腹まで探るようなタイプでもなく、取り引きを持ちかける相手には向かなかった。かの「ライブラ」にコネクションがあるのは警察隊としても心強いが、組織にはやはり自分やスターフェイズのような種類の人間が必要になってくる。こんな混沌と化した街の治安を少しでも保とうとするなら尚更だ。

(今回の材料はちと怪しいが……)

 うまく交渉しなくてはならない。いわく世界の均衡を守るーーーというライブラの目的と警察側との利害が一致することは多いが、彼らとて非合法な秘密結社である。特にスターフェイズという男は非情な手段でも場合によってはやってのけるので注意が必要だろう。ロウは彼へ指定した人目につかない路地裏へと足を進め、そして先客があることに気付いた。小柄なシルエット。当然ながら待ち人ではない。
 「彼女」は見るからにまだ年若い少女のようで、錆びて煤けたトタン板の上に走る迷路のような太いダクトの高い位置に腰かけ、ホットパンツからむき出した健康的な脚をふらふらと揺らしていた。トレンチコートの両ポケットに手を突っ込んだ、前髪の奥で鋭い目を光らせる男が歩いてくるというのに、まったく意に介していない。それどころか自分を足元から見上げてくる男に、にっこり微笑みかけさえした。

「はぁい、おじさん」
「ようお嬢さん、そんなところで何してんだ?」
「素敵な人を待ってるの」

 デートの待ち合わせにしては物騒すぎる。誰かと待ち合わせているわけではないのだろう。彼女はリブセーターにぴったりと体の曲線を沿わせた格好で、蠱惑的に首を傾げて片膝に頬をつける。その仕草はまるで自然で、それでいて「素敵な人」とは自分のことを指すのではないかと勘違いさせるような、思わせぶりな甘い声をしていた。たかだか16、17ほどの少女のくせにやけに嫣然としていて、ロウは仏頂面のままさてどうしたものかと腕組みをする。
 これがプライベートだったなら、この街にも存在するいかがわしさのないカフェテラスで、美味いブランデーココアでも飲ませてやりたいくらいだった。ウェーブのかかったショートヘアーからのぞく、細められた金色の瞳には謎めいた魅力がある。けれど残念ながら今から大事な仕事があって、女の子と遊んでいる場合ではないのだ。ロウはそれを全身から滲ませて、仕方なさそうにニヒルな笑みを浮かべる。

「お嬢さん、悪いがおじさんはここで大事な話をしなきゃならない。差し支えなければ、表のカフェテラスで待っちゃくれないか。なんなら小遣いをやったっていい」
「うん、いいよ」
「いい子だ」
「そのかわり、足にキスしてくれる?」

 なんの脈絡もなくぶつけられた言葉に、さすがにロウも呆気に取られる。客引きをしている娼婦というわけでもなさそうだったし、小遣いにもさしたる反応はなかった。かといって冗談を言っているふうでもない。男が怪訝そうな顔をしたからか、少女が抱えていた右足のダクトからぶら下げると、その足首に四角い絆創膏が貼られていることにロウは気付いた。
 ははあ、「I'll kiss it better.(痛いの痛いの飛んでいけ)」というわけか。
 強請るようにふらふらと足を揺らす仕草はどこか子供じみている。高飛車に足の指を舐めろと言われたわけでもなし、これで退いてくれるのなら安いものかもしれない。ロウはぐるりと路地裏に視線を走らせ、それからポケットから手を出して少女の足をとった。金色の瞳が期待に輝く。釉薬のかけられた陶器のようななめらかな肌。そのまま傷の上に軽く唇を落としてやると、消毒液のにおいが妙に甘ったるく感じた。とたん、少女の弾むような笑い声が降ってくる。

「ふふふ……」
「満足したか」
「うん、うん、ありがと」

 するりとダクトの上から降りた少女が、上機嫌でショートブーツの踵を鳴らす。男より頭ひとつふたつ小さい位置にある顔が一瞬近づいてじっとロウを見つめたが、すぐに背けられて表通りの方角に歩を進めた。どうやら素直に去ってくれるようだ。やれやれと懐から煙草を取り出して火をつけたロウは、同じく裏路地に入ってこようとする男の長い足に顔を上げた。そして二人がすれ違った瞬間、ロウはあまりの衝撃に煙草を口から取り落とした。
 スティーブンが笑いながら少女の額にキスをしたのである。
 いくら表向きは社交的な男とはいえ、出会い頭の人間にすることではない。しかも彼女は驚きもせずに自然に笑って返し、カフェテラスの方角を指差して裏路地から出ていく。嫌な予感がした。少女は去り際にバイバイと手を振ったが、ロウはもはや皺の寄った眉間を押さえて落とした煙草を踏みつぶすことしかできない。ああ、火をつけたばかりだったのに勿体ないことをした。待ち人、スティーブン・A・スターフェイズは何食わぬ顔で彼の横に並ぶ。

「あの子は」
「ああ、アンリっていうんだ。僕の姪っ子」
「お前の身内か…………!」

 数分前の自分を殴り飛ばしてでも止めたい衝動に駆られたが、このヘルサレムズ・ロットでも流石に過去に戻れる異能の持ち主はいない。彼の姪ならあの年に不相応な色気も頷ける。この男に血縁者がいたのかだとかそんなことはどうだっていいから、たらしこむのが上手いのは血筋なのかを教えてほしい。冗談じゃねえぞ。たまたま出歩いていただけというがどこまで信用できるものか。
 しばらく眉根を寄せて苦悶したあと、ともかく仕事を進めなければと、ダクトに乱暴に背を預けてもう一本煙草を咥える。ダニエル・ロウは動揺を覆い隠し、最後はほとんど意地と気迫で「ライブラ」の協力をもぎ取った。シケモクを量産する警部補のいつになく必死な様子に首を傾げながら、密会を終えたスティーブンは当たり前のようにカフェテラスへと向かう。
 それをしっかりと見送ったあと、ロウは「はじめから自分にやたらと好意的な美人の誘いには乗らない」ーーーという、警察学校で習うような教訓をしっかりと胸に刻み、誰も居ない路地でがっくりと肩を落とすのだった。



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