マーツ国最北端の地。
 もう少し進めばラミート国の領分である。近年魔道士を複数抱え力を蓄えてきた隣国のことを、かの王は常に懸念していた。それほど急激な寒暖差はないにしても、やはり北の国は少し冷えるようだ。ダデムルゥはコートの襟をしっかりと立て、さらに北へ進んだ。
 付き人はない。いわゆる貴族の地位にある魔道士が望めば側に置くこともできるが、ダデムルゥは煩わしいと断っていた。文字通り言葉一つで他人を操れる者の側付きになりたい者など居まい。それにもう一人のマーツ国魔道士はその体質のせいで誰も近寄ることができないのだ。自分だけ人に囲まれて束の間の孤独を紛らわせたとて何になるのか。ダデムルゥは国に仕えて長い身でありながら、未だに人が成す国というものに馴染みきれていないのかもしれなかった。

(霧が濃くなってきたな)

 視界を遮る白い霧は北に向かうにつれて濃くなってきた。正確にはラミート国の国境はもう少し先であり、ここら一帯はどの国にも属さない荒野だ。魔物が多いので人も寄り付かない。いや、厳しい環境なので人間が住み着かなかったために魔物が巣にしていると言ったほうが正しいかもしれない。
 偵察という体で来ているので身を隠せるのは助かるが、これでは進むのも困難だ。『霧よ晴れよ』と軽く魔力を込めて言葉にするとダデムルゥの目の前がパッと開けた。そのとき彼は咄嗟に歩みを止めて足元を眺め、こめかみを汗が伝うのを感じた。足先にはもう地面がなく、地獄まで続くような裂けた崖が広がっている。
 あと一歩遅ければ。
 ゾッと血の気が引くのを感じながら谷底をじっと見ると、奥に行くほど霧が溜まっているようだった。気温の低さ考えてあり得ない現象ではないが、それにしても霧が濃すぎる。水の中にミルクを溶かし込んだような濃霧はさらに北に行かねば起こらないはずだ。

「……魔の谷か」

 決して無事では戻れない場所を、人は時にそう呼ぶ。ダデムルゥは厳しい顔で足元に魔力を込めると、今度は躊躇いなく暗い谷底に飛び込んだ。霧の中をぐんぐんと加速しながら徐々に飛翔魔法を発動させ、思いの外荒れていない谷底に足をつける。
 想像とはだいぶ様子が違った。
 光が届かないほど深い谷だというのに、なぜかぼんやりと明るい。さらに最下層は不思議なことに霧は晴れていて、頭上で雲のように一定の高さで漂っている。試しに谷の岩壁に手を当てると、ほんの微弱ながら魔力を帯びていることが分かった。まさかこの広大な谷に結界を張っているとでもいうのか。眉を寄せたまま谷を振り返ると、そこには一人の子供がいた。

「!」
「………わっ、あ、あ」
「おい、そこの小僧」
「に、にんげん、人間がなんで」
「『落ち着け!』」

 ダデムルゥの太い声に子供は手に持った壺を胸に抱えこんで息を飲んだ。見た目は4、5歳であろうか。透けるような水色の髪に、耳には変わった耳飾りをしている。衣服は真新しいわけではないが古くもなく、長いマントを引きずっている以外は近隣の街で売られているものと変わりはない。至って普通に生活をしているようだ。
 子供は突然現れた男に怯えているのか、落ち着きを取り戻したあとも不安げに瞳を揺らしている。ダデムルゥはしゃがんで子供と目線を合わせると、なるべく威嚇しないように剣を抑えた声で話しはじめた。

「ワシはダデムルゥだ、お前は?」
「俺は、その、ケイ」
「そうか、ケイ。ここで暮らしているのか?父や母はどこにいる?」
「なんで?」
「少し尋ねたいことがあってな」
「……でもおじさん、人間でしょ?」

 母さんたちをやっつけに来たの?
 怯えた目で伺うように見てくる少年を、ダデムルゥは極めて落ち着いて見返す。どういう意味なのか話を聞かせてくれと言うと、彼は渋るように視線を泳がせたが、やがて根負けしてダデムルゥを案内しながら話をすることにしたようだ。
 少年は身の丈に合わない壺を抱え直し、ゆっくりと霧の谷を進んだ。曰く、彼らの一族は随分前に戦いに敗れ、力を失った上に辺境の地に追いやられ、以来人間から姿を隠すように暮らしてきたという。お婆ちゃんから聞いた話だけど、と呟く少年の裾を引きずったマントから、するりと何か細長いものが覗いた。ダデムルゥはハッと頭上を見上げる。

「だから俺、人間って怖いんだよな。母さん達より小さいのに、もっと昔の偉くて強いやつらにも勝っちゃったんだから……」

 低いうなり声が響く。
 頭上の分厚い霧の中を、何か巨大なものが回遊している。それは大きな翼を持ち、強靭な手足と硬い皮膚を持っている。魚の鱗のように揺らめく尾がゆうらりと霧を泳ぐ。それは前を歩く、少年の尾にもついていた。
 まさか、とダデムルゥは首を振る。彼らの周りをいつの間にか音もなく取り囲んでいたのは、かつて人間を数多蹂躙し、君臨し、魔道士エルミスに封印されたはずの―――ドラゴン族の巣穴!

「珍しい客が来たものだ」

 ぞろりと脳髄を舐められるような声。
 頭上に影がかかる。少年のほんの数メートル前に降り立とうとした巨体に、ダデムルゥは咄嗟に少年の手を引いてそこから離れた。大地が揺れる重い音と共に降り立ったのは、まさしく文献で見た通りの伝説のドラゴン族である。
 ダデムルゥは背筋に冷たい汗が流れるのを感じたが、表面上は顔色を変えることなくケイの手を離した。少年はまだ目を白黒させながらドラゴンを見ると、なんと親しげに声をかけたので、ダデムルゥはまた肝を潰さねばならなかった。

「母さん、ただいま!」
「おかえりケイ。その人間は?」
「母さんに聞きたいことがあるっていうから、連れてきたんだ」

 ドラゴンの金色の目が細まる。この少年はドラゴンに育てられた人間だとでもいうのか。いや、それではあのドラゴンがごとき尾は一体なんだというのか。頭の中を飛び交う疑問で自問自答しながら、ダデムルゥはどうすればここから無事に帰ることができるかと思考を巡らせていた。ここから目視できるだけでも7匹。いかに魔道士とはいえ戦って勝ち目があるとは思えない。
 生存の道の鍵があるとすれば、やはりこの少年だった。意思の疎通は問題がない。人間に怯えているようではあるが、ダデムルゥには少し警戒を解いている。ダデムルゥはケイの肩に手をやり、そして大胆にも一つの賭けに出た。

「ワシはマーツ国第一魔道士のダデムルゥだ。この度は突然の訪問を許してほしい。ワシは彼ケイの誘致にやってきたのだ」
「誘致だと?」
「そうだ。分かるだろう?彼は類い稀な魔法の才を有している」

 口から出まかせ、というわけではない。この谷底を覆う霧が微弱な魔力を帯びているために紛れて感じるが、ケイは一般の魔法使いレベルを上回る魔力を持っている。同時に彼らがかつて脅威と判断し手を出さなかったマーツ国の名前を出せば、少しは躊躇ってくれるかもしれない。あるいは同時にそれは彼らのプライドを踏みにじり、激昂されてもおかしくはない賭けだった。
 当のケイは事態について行けていないのか目を丸くし、母と呼んだドラゴンとダデムルゥを交互に見ている。ドラゴンは一度沈黙してから目を伏せると、意外なことに深く頷いてみせた。

「その子は人間ではない。卵から生まれたときには人間に近い姿ではあったが、間違いなく私の子だ。歳のほどは5才になる」
「何?ではこの子はドラゴンなのか?」
「姿は違えどそうだ。連れて帰れば混乱を招くことになろう。もっともケイが魔法を学ぶのは反対しないが、人間のために我が子が鎖に繋がられるのは我慢ならない」
「……では、提案がある。国専属の魔道士ではなく、食客魔道士ということにしてはいかがか。国に滞在する間は働いてもらうこともあるが、それ以外の時分は制約はない」
「ふむ」

 彼女は太い幹のような立派な尾を揺らし、思案するように目を閉じた。周りのドラゴン達は不気味なほど大人しく、ただ彼らを注視したまま鳴き声ひとつ上げない。様子を見る限り、どうやらこの谷の集落は彼女を長とした統率の取れた群れのようだ。
 ドラゴンは金色の双眸を開き、同じ色の瞳を持つ息子に目を向ける。少年は母が何か伝えようとしていることをすぐに悟り、壺を側に置いて彼女に近づいた。間近に並べばその体格差はさらに目立ち、ケイは自身の10倍もの巨体を持つ竜にまったく怯える様子もなく両手を伸ばす。ドラゴンは長い首を曲げて顔を近づけると、ケイはその頭を抱え込むようにしてほおを擦り付ける。

「ケイ、彼と共に行くといい。お前はここにいても上手く力を扱えるようにはなれないから」
「俺、ここに帰ってこられる?」
「出るのは容易いが、戻るのは険しい。しかしケイ、お前が立派な魔術師となったなら再びこの谷の扉は開くだろう」
「それまでは会えないの」
「外にいる兄弟たちが、お前を助ける」
「……はい」
「息災で」
「はい」

 一度背を伸ばして縋るように彼女に抱きついた少年は、最後にはっきりと返事をして母から離れた。それからダデムルゥを振り返った瞬間にはどこか突然大人びたような表情で、先ほどのおどおどとした態度が嘘のように向き直り、一礼した。
 ダデムルゥは自分の企みが驚くほどトントン拍子に進んでしまうので些か不審に思いながらも彼に頷いた。もちろん戦力的に魔術師の少ないマーツ国にとって若き魔術師候補が増えるというのは喜ばしいことだ。事の次第によればダデムルゥはドラゴン族の長の息子を育てたことになるのだから、いずれは協定に近い関係になれるかもしれない。ケイは名実共にマーツ国の食客となるわけだ。
 しかし少年と共にどう谷を出るか、彼を抱えての飛翔魔法はやや骨が折れる。ダデムルゥが首を捻っていると、一匹のドラゴンが彼らの前に降り立った。同じく青い鱗に覆われており、発達した筋肉と立派な羽を持っている精悍なドラゴンである。彼は喉を鳴らし唸ったあと伏せて首を下げると、ケイが慣れたように角を掴んでその背に乗り込んだのでダデムルゥはぎょっとした。

「シュルヴィが乗せてってくれるって」
「ド、ドラゴンに乗るのか?!」
「ドラゴンじゃないよ、シュルヴィだって。俺の従兄弟。もしかして高いところ苦手?」
「いや……」
「じゃあはーやく!」

 ケイはダデムルゥの手を掴むと、男の中でも体格のよい彼を難なくドラゴンの背に引き上げた。その力の強さに驚きながらも、馬以外の生き物ーーーそれも太古に滅びたとされる凶悪なドラゴン族ーーーに乗ってしまったダデムルゥは流石に青ざめた顔をしながらも、大人しく足を動かし立ち上がったドラゴンに胸をなで下ろした。
 ケイは静かに見守る母竜を振り返り、元気に手を振った。偉大なドラゴンはやはり優雅に尾を揺らしただけだったが、それだけでケイは嬉しそうに笑った。ダデムルゥは彼女と視線を合わせて力強く頷くと、金色の目が深く頷くように閉じられた。やがてシュルヴィと呼ばれたドラゴンが地を蹴り飛び立つと体にぐんと重力がかかり、あっという間に谷は遠くなってしまう。捕まるところがないのでケイに言われるまま大きな角を掴んでいたが、飛行が安定するまでダデムルゥは冷や汗をかきっぱなしだった。

「しかし、良かったのか。ワシが言うのもなんだがこんなに急でなくとも……」
「ううん、ほかの兄弟はみんなもっと前に巣を出てたんだ。俺はこんなだから、みんな心配してなかなか谷から出してもらえなかった。ちょうど良かったんだ」
「食べ物や着る物はどうしていたんだ?」
「谷をずっと行くと南から北に行く道があって、行商人が通るんだ。俺がでかくなってからはそいつから買ってたよ」
「しかし産まれた我が子が人の子だったとは、母君も戸惑われたことだろうな。勝手もずいぶん違うだろうに」
「母さんはなんでも知ってるからなあ。なんか、千里眼だっていってたし」
「…………」

 ドラゴン族は魔力の強さも伝説に名高い。千里眼を有しているのもおかしくないが、このタイミングで言われてはケイへの扱いも筒抜けだという警告にしか聞こえなかった。国に戻ってから自分の独断をいかに王や貴族たちに使えるべきか今から頭が痛い。幸運だったのは、ケイの巣立ちを考えていた母ドラゴンの思惑とダデムルゥの提案が合致したことだった。ドラゴンの巣に不用意に入り込んで無傷で出られたのだから奇跡的と言わざるを得まい。
 上に乗る彼らを気遣ってか、ドラゴンは雲ひとつない澄んだ空を悠々と飛んでいく。この早さならば間もなくマーツ国へ到着するだろう。桃色がかった薄紫色の空を見下ろし、ケイは既に見えなくなった故郷を不安げに振り返った。だがそれもほんの一度だけで、今度は迷いなくダデムルゥに向き直った。

「マーツ国ってどんなところ?やっぱり人間しかいない?みんな魔法使うの?」
「そうだな……世界では南西にある国だ。あの谷のように霧や雨は少ないし、空気は暖かくからりとしている。それほど戦火に見舞われたことがないから、遺跡が多い古い街だ。そのせいで政治も下手だがな」
「あったかいんだ、いいな」
「夜は寒いぞ。それから、そうだな、人間しかおらん。魔法を使えるものはあまりおらず、魔道士はワシの他にもう一人だけだ」

 魔道士は世界的な脅威だ。どの国もより多く優秀な魔道士を集めることに躍起になっている。北のラミート国が未だ勢力衰えぬ大国であり続けるのも、ひとえに魔道士を数多召し抱えいるからだ。魔道士ただ一人で国が傾きまた富国になる。それだけの力を持ちながら、いやだからこそ、国に仕える以外に魔道士はこの世界で居場所を持たないと言い換えてもよい。双方が手を取り、遥か昔からそういう摂理でこの世はできている。
 だからこの少年も国に入るのならそれなりの心得が必要になる。魔道士の言動の重大さ、地位や住居、または生じる義務、さらに「面倒なことだが」と前置きをしたあと―――王への謁見や貴族への振る舞いを事細かに注意するダデムルゥに、ケイはどこか不思議そうな、それでいて気のない様子で彼を見やり、ぽつりと口を開いた。

「ほかの生き物みたいな言い方するんだな」
「なに?」
「さっきダデムルゥは人の子って言ったけど、やっぱり俺は人間じゃないよ。何回か会ったけど、かたちが似ているだけであまり仲間だって感じはしなかったもん」
「確かにお前はドラゴン族だがーーー」
「でも、ダデムルゥは俺と近いとおもう。魔道士はみんなそうなのかな。人のかたちをしてるけど、人間とは、」
「『ワシは人間だ!』」

 強い口調で叩きつけた声に魔力が込められていることに気づき、ダデムルゥはハッとした。下でドラゴンが威嚇の唸り声を上げる。それと同時に自分が話している相手がまだ年端もいかぬ子供であることを思い出し、ダデムルゥは口を噤む。ケイは驚いて肩を竦めたが、特に怯える様子もなく「ごめんね」とだけ言った。彼の柔らかい新芽のようなあどけない声が、魔道に生まれた男の心臓を意図せず深く抉ったのだと知らぬまま。
 日が落ちようとしている。
 この少年がマーツ国に齎すのは栄光か破滅か。果たしてこれで良かったのか。ダデムルゥの胸に募る迷いのように、赤く染まり始めた雲がにわかに漂う。しかし彼はもはや後戻りできない。転がりだした石は戻らず、堰を切った水は決して止まらない。失われたはずの古代の遺物。人の姿をした竜の子の巣立ちを、ただ黙って導くしかできないのだ。

 993年、マーツ国第一魔道士である「罵声の魔道士」ダデムルゥが一人の少年を連れて帰還した。青い鱗に覆われた尾を持つ、その不思議な少年はのちに―――「竜使いの魔道士」と呼ばれるようになる。

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