午後8時、魔界中学校。 二年の鈴鬼タロウはとっくに下校時間の過ぎた校舎に一人足を進めていた。なぜ彼はこんな遅くにに再び学校へ来たのか―――それは宿題のプリントを学校の机に放置してきたのだが、運悪くそれが母親に露見してしまったという、単純な理由である。 その日は魔界でも記録的な大雪が降っていた。タロウはダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、マフラーに顔を埋めてもなお寒そうに廊下を歩いている。私服で学校に来るというのも、なかなかどうして変な気分だ。
―――ヒタヒタ……
ふと音を耳が拾う。 上履きが一瞬止まり、しかし何事もなかったかのように努める。外の風の音だろうか、それとも屋根に降り積もっている雪でも落ちてきたのか。頭をよぎる予感から無意識に逃げるように、歩む速度はやや速くなった。 暖房の切れた廊下はやけに底冷えする寒さだ。確実に奪われていく体温に加え、電灯も付いていない暗い暗い校舎。緩い蛇口から落ちた水滴の音にまで敏感になるほど、いかにもといえばいかにもな状況である。
―――ヒタ……ヒタ……
気付けばいつのまにか自分の教室に前を通り過ぎかけ、タロウはついに足を止めた。誰も居ないはずの教室のドアは、少年を招き入れるように半開きになっている。金属のノブに触れたら、ぞっとするほど冷たかった。 中に誰かいるのだろうか。 もしかして自分のように忘れ物を取りに来たクラスメイトか、最悪先生の可能性だってある。竦む足を押さえ、恐怖を跳ね飛ばすように一気に開いた。
そして白く浮き上がったシルエットに、絶叫がこだまする。
「うおぁああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」 「キャアアア!!」
あまりの声量に驚いたのか、その影はタロウが腰を抜かしそうになってドアに隠れるよりも早く、三方を板で覆われた教卓の中へと隠れてしまった。 幽霊か亡霊かと反射的に身を引いたが、その怯えっぷりにふと冷静になって中を睨みつける。教卓というのはそれなりに小さいもので、そこに入ってしまうということは体格も大したことはない。手のひらを返したように強気な表情で立ち上がると、タロウは腕組みをして教室に足を踏み入れた。
「おいおい、夜中に何してんだよ?脅かすんじゃねえよったくよ〜」 「ひっ……ご、ごめんなさい……」
ピクリと尖った耳が反応する。 教卓の奥から聞こえたのは、怯え縮まっているが高く透き通った声だった。決して自分やクラスメイトのような男の声ではない。 女の子だ。 その事実に気付いた瞬間タロウの全身に雷が走る。放課後の暗い教室で、女の子と二人きり。そのシチュエーションだけで妄想が駆け巡り、手は心臓をおさえ、声色は途端に優しく媚びるような響きになった。
「き、君ってうちの生徒じゃないよね?」 「……はい。勝手に入って、ごめんなさい」 「へ、へえー、そっかあ〜 どっから入ったの?」 「えっと……」
声の主はすっかり意気消沈しているようだった。魔界の女というのは大抵が男よりも強く、さらにややキツい性格が多い。こんな気弱な調子で喋る女の子自体が新鮮で仕方がなかった。 教卓からスッと手が出てきて、タロウの心臓はさらに跳ねる。あそこから、と教室の開いた窓をさす手指は真っ白といっていいほど色白で、さらに小さく女の子らしかった。声がさらにぽつぽつと聞こえるが、もはや内容は耳に入ってこない。
隠れていると見たくなる、それ即ち魔界人の性である。
「だーーーっ!もう我慢できん!!」 「!?」
腐っても鬼の血を引く腕力が、普段全く見せたことのない勢いで教卓を退かした。倒れた机になど目もくれず、ようやく声の主と待望の対面―――と、待ち構えていたのはタロウの方だったはずなのに。 見開かれた瞳から、零れそうな金色。月白に照らされ、薄闇の中に光った。
「タロウくん」 「へ?」
膝をついたその少女は、信じられないというような顔でタロウを見た。首巻きまでは冬の装いそのものなのに、薄い着物は膝丈で切られ、靴下も履いていない足は寒々しかった。 真っ白だ。 出た感想はそれくらいのものだった。髪も肌も着物もほとんどが白に染められていて、酷く目立つはずなのにかえってどこかおぼろげだ。こんな容姿をしていたら覚えているはずなのに、と少年はどこか浮足立った様子で首を傾げる。
「ど、どっかで会ったっけ?君の名前は?」 「あ……わたし、アンリ。そう、でも随分前だから、覚えてないかも……」
長く垂らした前髪に少女は表情を隠す。奥に隠れる目許は涼しげを通り越してやや冷たい印象だが、自信なさげな仕草のせいかあまりそうは見えない。 ちらちらと自分を窺う視線に思い切り照れ笑いをしながら、タロウは後ろ頭を誤魔化すように掻いた。
「おっかしいな〜!アンリちゃんみたいなコが居たら覚えてると思うんだけどな、ハハハ!他の中学なの?」 「……私、学校行ってない」 「えっマジで?」 「うん、憧れ……」 「ほほう」
憧れていると言いながら、少女は全く手が届かないものを見るように教室を見渡した。いつもなら決して足を踏み入れることのできない場所、入り口がぽつんと開いていて居ても立ってもいられなかったのだろう。 静かな教室に落ちてくるアンリの声を、タロウは確かにどこかで聞いたことがある気がした。けれどそれはほんの感覚的なもので、頭に浮かんだある考えに上書きされて消えてしまう。 ふむ、と顎に手を当てて大仰に思案顔をつくる。そして素晴らしいアイデアを閃いたとばかりにパチンと指を鳴らした。
「ていうかさ〜来ればいいんじゃね?学校くらい。ウチなんか生徒が居なくなったり突然来たりなんてしょっちゅうだし、バレねーぜ多分」 「へ?」 「楽しいぜ学校は〜?友達100人出来ちゃうぜ?」 「えっ、うああ、……で、でも、わたし学校のことよく知らない……!」 「んなもん俺がなんとかしてやるって!」
学校に来たことがないということは、同世代の友達も少ないことだろう。適当にアタリをつけて口八丁手八丁と勧誘すれば、少女は面白いくらいに揺らいでいるようだった。目の前の少女が押しに弱いということは、この短い時間でも十分に推し量れる。 中学生、今楽しまずにいつ楽しむというのだ。タロウの思考回路は単純だった。こんな女の子が学校にいれば楽しいに決まっている、たったそれだけだ。
「だから来いよ、アンリ!」 「………!」
前髪の奥の金色が見開かれる。 まるで姫を迎えにきた騎士のように、タロウは少し気取って少女に手を伸ばした。目の前に差し出された掌を戸惑ったように見つめ、目があちらこちらに泳ぐ。膝をついたままの体勢で、ちらりと窺えば目が合う。 タロウが強気に笑う。 それに背中を押されたように、アンリは自らの手を恐る恐るとそこへ重ねた。
「うん……!」
少女の綻んだ声に呼応するように、ひとひらの雪が窓から落ちる。その日穏やかながら降雪はとどまるところを知らず―――魔界は稀に見るほどの銀世界となったのだった。
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