羊水に揺られ微睡んでいるところを、優しく呼びかけられて目を覚ます。この世に降ろされる感覚というものはそれに似ている。心の底から心地の良い気分で瞼を開ければ、開いた障子から射す木漏れ日が祝福のごとく降り注いだ。生まれ出でた瞬間ですらきっちりと背を伸ばして正座をしたへし切長谷部は、何度めかの瞬きのあとに清々しい気分で目の前の人物を見る。
 思わず呼吸が止まった。
 真っ直ぐに彼の瞳を見据えたその人物は、まるでよく出来た人形だった。蝶よ花よと籠の中で育てられた珠の姫でも、細かな傷の一つや二つはあるだろう。生きてきた道程の刻まれた痣や傷、手や唇の皺、よく動かす表情の筋肉にも偏りが生まれる。そういったものが一切見受けられない貌の上に、ガラス玉に似た透き通る瞳がぽつりと乗っているのは、あたかも二つの月のようである。
 大きな目といい長く垂らした前髪といい、女と見紛う整った容姿をしているが、楽にした肩の形や袖口から覗く手指は骨張った男性のそれだ。長谷部より少しばかり小柄だろうか。刀が呆然と彼の人を見ていると、男は表情を崩さぬままに唇を動かした。

「名は?」
「ご、ご無礼を!へし切長谷部と申します。召し抱えていただき感謝の極み。主君のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「あるが口にしたくはない」
「は………」
「ケイと呼べ」

 お前と同じようなものだ、とケイが嫌悪も好意も滲ませない声で言った。へし切長谷部。元の主である天下人織田信長が隠れた茶坊主を箪笥ごと圧し切ったという逸話から名付けられたその名は、かつては誇り高き矜持として、今は呪いのように長谷部の身を重く縛っている。
 会ったばかりの新たな主に己が心内を知られてしまったからか、それを厚く見せた忠誠で覆い隠していたことに自覚すらなかった浅ましさからか―――わけも分からず羞恥と焦燥が全身を駆け巡った長谷部は、顔を薄っすらと紅潮させて視線を下ろし俯いた。しかしそれも許さぬとばかりに、ケイの静かな声は続く。

「では長谷部」
「はい」
「お前は自分が本物と思うか」

 問われた言葉の真意が掴めず、長谷部はほとんど悟られない程度に眉を寄せた。相変わらず表情はピクリとも動かず、居心地が悪くなるほど真っ直ぐに見つめてくる主人は、決して冗談を言っている表情ではない。暫し沈黙を守ったあと、刀は勤めて静かに口を開く。静かな湖畔に石を投げ入れたように、その声は存外に強く響いた。

「俺は本物です」
「確かか」
「はい」
「そうか。そうだな。相違ない。「本物」のへし切長谷部に宿る魂魄を俺が降ろした。けれど刀身は違う。地金から細かな傷から何から何まで完璧にコピーされた複製品だ。いいようによっては、本物が複数ある、ともいえる」
「な………ッ」

 淡々と告げられた事実に長谷部は目を見開き、勢いよく自身の刀を手に取った。鞘、柄、鍔。形状や色はもとより手触りや重さまで自身そのものだ。贋作なら分からないはずがない。動揺に腰を浮かせ柄を強く握り締めてから、長谷部は自分が今まさに斬りかからんとする無礼な態度を取ってしまったことにハッと気付いた。狼藉に慌てて主人の顔を見るが、彼は笑っても怒ってもいない。やはり相変わらず凪いだ海のように落ち着いた瞳で、静かに刀を見ている。
 この方は一体何者なのか。
 歴史修正主義者と呼ばれる反逆軍によって脅かされる正史を守るべく、遣わされた審神者なる者。その為に刀剣は人の姿形を取り、自らを振るう役目を課せられた。その程度のことは長谷部も把握しているが。曲がりなりにも神と名のつく自分よりも、よっぽど人間離れしている。意味のない侮辱とは思えなかった。奥歯を噛み締めて座り直した長谷部を見て、ケイはまた口を開く。

「腹立たしい?」
「いえ…………」
「俺は怒ってるぞ。生まれた時からずっとだ。どこぞの誰かのために作られて、好き勝手に使われるだなんて反吐が出る。お前は違うのか?腹が立たないか?自分の運命を他人に握られるのは御免だと思わないか?」

 嫌な汗が米神を伝う。彼が言葉を重ねる度に腹の奥が重くなり、責め立てられているような気分になる。再び正座をして太ももの上で握り込んだ手が、手袋を湿らせるほど汗をかいていた。長谷部の中には燃えるような怒りを捩じ伏せ、恐怖がただ蔓延っている。
 これでは。これではまるで。

「……俺が、偽物だという証拠はあるんですか」
「無い。誰かが、本物と名乗る何者かが、あるいは正史がそう言っている。そういうふうになっている。では、俺やお前が本物となるには一体何が必要だろうか?」
「貴方は審神者でありながら、正史を敵対視している!」
「そうとも」

 絵のように正しい角度でケイの唇がつり上がる。ハッとする。彼が初めて見せた表情は、静かに燃え上がる怒りの焔を孕んだ、ぞっとするほど美しい微笑みであった。長谷部は急激に呼吸が苦しくなり、頭が重くなるのを感じた。血の気が引いて真っ青になった額に脂汗が滲み、手足がうまく動かない。この出口の見えない問いから助けてもらえるならば誰でもいいとすら思った。
 彼は壮絶な笑みを浮かべたまま、身を乗り出して長谷部に近付く。至近距離で眺めても綻びひとつない美貌は、完璧にあまりにも近く、それだけに恐ろしい。気付けば殆ど覆い被さられていた長谷部は正体の分からぬ闇に自分の命が握られているような恐怖に浸かり溺れている。しかし同時にどうしてか、何故(なにゆえ)か、陶然とした熱が胸の奥で湧き上がりはじめていた。

「俺には力がいる。刀がいる。だからお前を呼んだ。政府から“賜った”山姥切国広は俺を排除しようとしたが……どうする?」
「何を、」
「俺を殺すか?それとも、共に来てくれるか?世界の敵だと俺を斬り捨てるのもいいだろう。だが、約束する。お前を本物にしてやれるのは、この世界にただ俺だけだと」

 もう一度聞こう、おまえはどうする?



▲▼



 畳に四肢を投げ出して倒れこんだ姿のまま、長谷部は天井の木目を呆然と見上げていた。永遠のように感じたはずがほんの一瞬の出来事で、障子から射し込む太陽は少しも傾いてはいない。全身をじっとりと流れていく汗を通った風が冷やし、長谷部ははじめに感じた清々しい心地よさを再び味わっていた。
 ケイは板の間に裸足で立ったまま動かない。陽の光を浴びて透けるほど病的に白い肌は、あまりにも白日の下には似合わない。そんな気にさせた。

「神を信じるか?」
「……質問が、お好きですね」
「うん、興味がある。答えは?」
「信じています。こんな形(なり)をしているのもそのせいでしょう」
「そうか」

 鎧の下にはまるでカトリック教会の神父を象ったようなカソック。首からは十字架。人を屠り地獄へ送る刀の分際で聖職者を気取るなど皮肉にもならない。それでも今更嘘を取り繕う気にはなれなかった。瞼を閉じた次の瞬間にまだ天が落ちこの世が終わらぬと信じているように、長谷部は神を信じている。そうあればより善く在れかしと。
 ケイが障子から身体を離し、光が十字架に反射してキラリと光った。近付いた気配に脱力した手足に力を入れようとしたが上手くいかない。主の手を煩わせるわけにはいかないとなんとか自力で起き上がろうとしたが、伸ばされた手を拒否することもできない。渋々と握った手は、彼の体躯からは想像もできないほど力強く長谷部を引っ張り上げた。驚いた顔をした彼にケイが薄く笑ったので、長谷部は背を震わせてまた赤くなった。
 白い指先がカソックをなぞり、金の十字架を絡め取る。長谷部は一瞬ふと彼の指が赤く爛れるのではないかと危惧したが、実際は何も起こらずに十字架は大人しく手の中に大人しく収まっていた。

「神を信じるようにそれを信じる者が数多いるのならば、歴史や真理さえ捻じ曲げられる。それがどんな絶望を招いたとしても、まさしく我らにとっての光明だ」

 瞳から覗く炎。地獄の釜のように脈々と燃え盛る怒りは、やはり昼間の正しさに似つかわしくないほどに仄暗く激しい。しかし彼の言葉は迷いがなく真っ直ぐに伸びていて、長谷部は先ほど体を支配した脅威と同じものだというのに、そこに正しさすら感じていた。彼はこの世に蔓延る間違いにただ一人気付いていて、やっと動くべき歯車が動いたのだと。
 馬鹿げている。
 心底馬鹿げているというのに、それが真実なのではないかと思わせる何かが、この審神者には、この空間にはあった。ではさっそく準備に取りかかろうと背を向けて歩き出した彼に向かって、長谷部は動悸が収まらない左胸を気にしながら口を開いた。

「ひとつ、聞きたいのですが」
「なんだ?」
「貴方の手を取っていなければ、貴方に背いていたのなら、俺をどうしていましたか」

 ケイは足を止めてゆっくりと振り返り、長谷部を横目で見た。

「折っていた」

 ちょうど一振り目のように。
 斜陽の光に勝る微笑みで、彼はこともなげに言い放った。長谷部は足元が竦みぞっとする一方で、胸の奥底に深い安心を得ていた。折られ捨てられ野晒しにされ、ただ腐り果てた鉄錆と化す。そんな風に自分はならずに済んだのだと安堵を口元に浮かべた。
 どんなに高い矜持を持つ人間でも、心のどこかで服従したいという願望を抱えている。それは長谷部が人の体と心を得てしまったからかもしれなかった。日が傾く。間もなく世界に夜の帳が下りる。坂を転がりはじめた石は誰にも止められない。主の足音が去るまで、長谷部は頭を下げたまま一歩も動こうとはしなかった。



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