赤い布張りの椅子を奪い合う朝とは違い、ドアが閉まる数秒前に体を滑り込ませても優雅に腰掛ける余裕のある昼下がり。ヒールの高さ8cm分の負荷はすっかり足先に蓄積されて、座席につけば思わず小さなため息が零れた。
 車窓から差し込む日差しに鞄から安物のサングラスを取り出せば、さて私がどこに視線を向けているか分からなくなる。雑誌を読むフリをしてレンズから他の人間をじっと眺めるのが、悪趣味だと理解していても面白くて止められない。
 これくらいは許してほしいものだ。別に誰に迷惑をかけるわけでもあるまいし。
 溜息を飲み込む。
 
「仕事熱心だね!」
「そんなことないわ(アンタ達が不真面目すぎんのよ)」

 ああイラつく。
 イタリアもイタリア人も大嫌い。私は流れていく時間が有限で貴重なことを知ってるもの、ヘラヘラ薄月給で安っぽい人生を謳歌してる横で、目ン玉飛び出るくらいの成功を掴んでやるわ!そう意気込んでさっさと仕事を終わらせてオフィスを飛び出した。
 それが今日の13時くらいのこと。

 まばらな乗客一人また車内へと乗り込んできて、一人が私のちょうど正面へ座った。どこのストリートでも売っていそうな安いコートを着ているのに、下は生意気にフェラガモの革靴。やや冷めた理知の光る目元は整っており、まだ未発達な身体つきの少年だった。
 ふとブロンドが揺れて、少年がこちらを向いているのに気付いた。私が雑誌に目を落としているとばかり思っているのか、遠慮もなしにぶつけられる視線。
 見てんじゃないわよ、なんて自分のことを棚にあげて心で悪態をついた。

 ミラノ駅をアナウンスが知らせる。大して読んでもいなかった雑誌を閉じて立ち上がる。
 しかしオフィス街からどっと人が押し寄せて、ヒールで足がもたついた私は、最悪なことに駅を降り損ねてしまった。口汚く罵り言葉が出そうになった矢先、身体は思いのほか疲れが溜まっていたのか、人波に揺られて体が傾く。

「ッう、わ……」
「!」

 倒れると、思ったと同時、引き寄せられたらあっという間に腕の中。二本の腕で囲われた空間は、いつのまに近くに居たのか、あの少年が作っている。
 意外と高い身長に驚く暇もなく、その真っ赤な頬と情熱に塗れる瞳に息を呑む。お礼を言う声も喉の奥で絡まった。彼の、自分の大胆な行動に驚いているような、何か決意したような表情が、彼が誰を想っているのか、私に分からせる。

(……この子、もしかして)

 不意に、サングラスを落としたことに気が付いた。薄い茶のグラデーションから解放された視界いっぱいに、鮮やかなブルーの目が映る。その色にはどうしてか見覚えがあった。
 確かそう、駅で降りるとき、乗りこんだこの瞳とすれ違ったことがあっただけ。出会ったことがあるのは一度だけのはずだ。

 なのにどうして。

 一瞬の緊張で冷えた体に、合点がいって血が巡る。それは全くもってただの私の予想でしかないし、事実と違うならば妄想でしかない。けれど事実だとしたら、人生のうち体験したこともないほどのロマンスになる。
 馬鹿馬鹿しい。
 そう思っているのは確かなのに、冤罪を証明するかのように頬は熱を持つ始末で。死んでも顔は見せまいと必死に手にもった雑誌を額に押し付けることしかできなかった。

 ああもう、一目ぼれなんて、映画だけにしてちょうだい!


ミラノ駅発、恋の行方

 意を決した彼が逃げる私の腕を掴んで、名前を聞くまであと一駅。

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