天使はもうどこにも行かない。
遠方ベルリンでの任務を終え、一時帰宅を許された。長らく世界中の警察機関が追っていたテロリストを捕縛した功績を讃えられても気分は晴れず、表情を曇らせたまま自宅のドアを開ける。夜更けの冷え込みは全身義体すら固まらせるようだった。 玄関でブーツの紐を脱いでから真っ暗の部屋に足を踏み入れる。頭がぼうっとしていた。一歩。二歩、のところで、バトーの足が柔らかいものを踏んだ。
「んぎゃっ」 「おおッ!?」
上がった高い悲鳴に慌てて後ずさって電気をつける。玄関先でうずくまって小さな子供が、涙を瞳いっぱいに溜めてこちらを見上げていた。どうやら足を踏みつけてしまったようだ。 まずい、と冷や汗が男の頬を伝ったと同時、大音量で泣き声が響き渡った。
「ッんにゃああァ〜〜〜〜!うぇえええ〜〜〜ん!!!」 「おいッ!?潰れてねえか?あ〜あ〜……平気だな、よしよし。つーかおめえなんでンな所で居るんだァ?」 「ひっ、うえ、ば、ばとーさん帰ってくるかなって、ひっく、まってたんらけどっ」 「………寝てたのか」 「ウン……」
花火が弾けるように泣いた子供は、驚いただけでそれほど痛みはなかったのか既に涙は止まっている。鼻の頭を赤くしたアンリに呆れかえって肩を落としてから、子供特有の無鉄砲な全力さに思わず笑ってしまった。 屈んでやるとアンリは待ってましたとばかりに顔を輝かせて首に手を回し、しっかりと掴んだのを確認してから抱き上げる。まだ濡れた大きな瞳を覗き込むように額同士を軽くぶつけた。
「踏んづけちまって悪かったな。俺が居ない間は何してた?」 「ええと、んっとねえ、学校のかだんでデイジーがたくさん咲いたよ。私が水やる係なの、ピンクのやつ」 「花は詳しくねえからなあ」 「あのね、丸くてかわいくてね……」
アンリが身振り手振りで花の説明をする。電脳化している人間同士ならば有線で映像を並列化してしまえば済むことだが、子供の目から見えた世界を、子供の伝える言葉から、あれこれと想像するのがバトーは嫌いではなかった。 抱きかかえたままリビングへ行き、すっかり冷え切った部屋に暖房を入れる。室内とはいえ玄関では寒かっただろうに。寂しい想いをさせてしまっただろうか。
(子供は、寂しいだろうな……)
父親が家に帰らない、というのは幼い子供にとってどれほど心細いものだろうか。天使の羽根―――アンジェリカというテロリストがいかに多くの犠牲者を出した凶悪な犯罪者とはいえ、あの盲目の少女から父親を取り上げたのは自分に他ならないのだ。 教会で一歩踏み出せば、バトーは少女を抱き上げてやることができただろう。父親のふりをしてやることも。しかし、自分はその資格を有した人間ではない。
―――大勢の人の命を奪っても娘の父親ではありたいのか?
怒りのまま放った言葉が、子供の頭を撫でる己に棘を刺す。公安9課という危険な職務に徹しながら、こうして子供を持つことが正しいのかは分からない。同僚のトグサも妻子を持っているが、バトーは彼と違って全身がサイボーグであり、もはや生身の人間と共有できない部分が多いのだ。 そこまで考えてハッとする。 アンリを育てると決めた時全ては覚悟したはずだ、今更何を考えているんだか。軽く頭を振って思考を切り替えると、安心したのかこっくりこっくりと船を漕ぎはじめたアンリは、その振動でふと目を瞬かせながらバトーを見上げた。
「バトーさん、バトーさん」 「ん?」 「おかえりなさい」
もはや血液の流れない体が、ドクリと脈動したような気がした。 子供は大人が思うよりずっと多くのことを知っているという。まるでバトーが何を思い悩んでいるのかを見透かしたように、その少女は慕わしげに微笑んでみせた。 天使はもうどこにもいかない。 一瞬でも過ぎってしまった馬鹿な考えを吹き飛ばし、バトーはアンリを抱きしめた。手離すことなどできるわけがない。自分はもうこの温もりを知ってしまった。喉が引き攣ったように動き、鳩尾の奥が震える。体をどこまで機械にしたとしても、押し寄せる感情の波には、いまだ逆らえそうもなかった。
「ああ、ただいま……」
ただいま、アンリ。 声が震えてしまうのを堪えながら、痛いくらいに小さくいたいけな命を抱きしめる。子供は少し驚いたように目を丸くしたあと、おろおろと心配そうに腕を目一杯に男へと伸ばした。静かなエアコンの音に混じって、どくんどくんと、鼓動の音が聞こえた気がした。
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