その子供はバトーという男に拾われる以前のことを殆ど覚えていない。物心つく前に拾われてから過ごした時間のほうがずっと長いからだ。はじめて覚えたのも彼の名前であったし、少女をこの時勢できちんと学校に通わせているのもバトーだった。
 難民と孤児が溢れるこの世で、子供はその男によって真実「幸福」を一身に受けている。少女が男を慕う心も窺い知れるというものだ。


 空が薄桃色に染まる。
 沈みはじめた日の中、親に手を引かれて帰路につく子供たちを見送る。今時子供一人で歩かせる馬鹿な親はいない。少女―――アンリの元には何時もはバトーが、時間が合わなければ代理を任された誰かが迎えに来てくれた。
 今日はその旨が携帯にバトーから連絡が入っていた。アンリは電脳化もしていないため、通信には端末が必要だ。送られた文字からバトーの声が聞こえるような気がして、それをぎゅうと両手で握りしめて立ち尽くす。
 
「アンリちゃん?」

 ぱっと少女が振り返る。
 柔らかいベージュ色のスーツに黒いハイネックを着た、穏やかな顔の男が背を屈めていた。ソフトに見えるのは安心させるように軽く笑みが乗っているからかもしれない。初対面ではないその人物の顔を見て、子供は緊張させた肩の力をほどいた。

「ダンナは今日お仕事だから、代わりに俺が来たんだ。お父さんじゃなくて悪いな」
「ううん」

 少女は頭を横に振る。
 肩にかかるほどの茶髪を揺らして笑ったトグサは、9課で唯一の妻子持ちだ。他の連中よりは子供の扱いを心得ているだろうと、バトーがそれを任せたのだろう。しかし同じ子供とはいえ、自分の子供と同僚の養女では勝手が違う。
 それに子供は少し人見知りなのか、バトーといる時とは全く違うおどおどとした表情に、トグサは少し困ったようにしながら手を伸ばした。

「じゃ、行こうか」
「……うん」

 子供が恐る恐る手を握る。格闘戦や電脳戦に関しては他のメンバーに劣るとはいえ、元々は刑事であるトグサの手はごつごつとした堅い節を持っている。子供の爪まで柔い感触のそれとは対照的だった。
 軽く握って歩き出すと、地面に並んだ長い影が落ちる。繋いだ手をじっと少女の大きな目が見つめて、眉を寄せて落ち着かない様子だ。小さな手がもじもじと動くので、トグサが不思議そうにアンリを覗き込んだ。

「アンリちゃん、どうかしたかい?」
「きもちわるい」
「えッ……」

 トグサはぎょっとした。気分が悪い、という意味ではないことはすぐに分かる。繋がれた手を見て明らかに顔を顰めているので、自分の娘と同じ位の女の子にそんなことを言われては、流石にショックを受けてしまった。
 まさか接触障害……というわけでもないのだろう。手を離すべきか迷うが、子供が言葉のわりに手は緩めようとはしないので、困り果てながら歩みを進める。

「ダ、ダンナとは手繋いだりしないのか?仲良いのに」
「するけど、でも〜……あつい?」 
「暑い?」
「ちがうかも」
「う、うーん……」

 的を得ない説明に男は眉を下げた。言いあぐねているというよりは、何と言っていいのか分からないというような顔をする。嫌われてしまったというわけではないのだろうが、なかなか難しい子だ。電脳化すらしていない無口な子供の頭の中は、やはりトグサには覗くことなどできなかった。


▲▼


 大通りから少し逸れた道に、ランチアのストラトスが停車する。見覚えのある旧式のスポーツカーにアンリの顔が明るくなり、アイスを片手に持ったままトグサの手をぐいぐいと引っ張った。
 道中なんとか会話をつないだ成果か、アンリはトグサにすっかり慣れたようだった。何といっても効いたのはワゴンのアイスクリームだろう。子供は大抵、美味しいものをくれる大人に懐くものだ。車窓から顔を出した義眼の男に、アンリはぱあっと笑顔を輝かせる。

「バトーさんっ!」
「よう、いい子にしてたかアンリ?随分いいもん食べてるじゃねえか」
「買ってもらった〜」
「ははは!悪いなトグサ、助かったぜ。こっちも今しがた終わったところだ」

 課長に任された単独任務を終えたバトーは、車窓に腕をかけて二人に声をかけた。車のキーを取っている男にうずうずしているアンリを見て、トグサは小さな手からアイスを預かる。餌付けという奥の手を使っても、さすがにバトーには敵わない。
 車を降りた大男の足に勢いよく飛びついた少女に、男は平生より表情を柔らかくして笑った。背の高いバトーに抱き上げられれば、少女はまるで赤子のように見えてしまう。

「あのねバトーさん!今日ねえテストが返ってきてねえ、90点あったんだよっ」
「おお、よくやったな〜。で、算数のテストは?」
「………へへへへ」
「それも見せろよ」
「えーーー」

 不満そうに言いながらこの上なく幸せそうにきゃらきゃらと笑うアンリの表情に、トグサは自分の子供の笑顔を思い出してふっと笑みをこぼした。少々骨は折れたが、引き受けたことに後悔はしていない。それに、厳つい同僚が立派な父親として少女に接しているのもなかなか見物だな、と少女にアイスを返しながらこっそりと笑った。
 大好きな父に抱っこされて、大好きなストロベリーアイスクリームをぺろりと舐める。アンリは今日一番のご機嫌のようだった。

「うっし、じゃあ飯買って帰るかァ。トグサ、ありがとよ」
「いや、迎えくらいならいくらでも」
「ホラ、お別れしろ」
「トグサさん、ばいばい」
「またな」

 バトーに抱えられながらはにかんで手を振る少女は、それはそれは安心したようにトグサにも笑顔を見せている。先程とは違った表情はふと、トグサに確信めいたひらめきをもたらした。
 義体の適正温度は大抵20度から30度。生身の平熱は36度と考えても、触った印象はかなり違う。「あつい」と漏らしたのは、全身義体のバトーに拾われ、それに守られる少女にとって、安心できる体温がバトーそのものだったからかもしれない。

「……それにしても"気持ち悪い"はちょっとヒドイぞ」

 子供というのはどうしてこう正直なんだ、ダンナももうちょっとコミュニケーションの取り方をだな、とぶつぶつ言いながら踵を返す。言葉のわりには頬に笑みを浮かべながらトグサも家族の待つ家へと帰路についたのだった。


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バトーさんに拾われた孤児のはなし



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