深夜2時過ぎ、街は沈黙した。

 彼は見た目よりもずっと固く、けれど荒れてはいない不思議な手をしていた。自分の手入れした肌と馴染んで細胞が混ざり合い、そのまま離れなくなってしまうことが心配になるほどだった。
 彼が走り出す。
 街から水辺に向かって、どんどんと駆け上がって行く。

「振り向いてはいけません」
「何から逃げてるの?」
「幽霊」

 声にふざけた色はない。
 落ち着いた音の周波数は鼓膜に入り込んで喉を揺らす。幽霊?とまるで信じていない私の呟きを、彼はまっすぐと透き通った瞳で見返した。
 クリスタルの輝きは声を絡め取り、根こそぎ奪ってしまう。彼は自分のことを宇宙人だと名乗った。

「あるいは、影。亡霊と呼んでもいいかもしれません。あなたもきっと、知っているはずですよ」

 何もかも訳知り顔で、けれと肝心な言葉を何もくれはしない。相変わらず掌は冷たいとも暖かいとも言えない温度で、頭の回転は急激に失速した。
 考える暇はないのかもしれない。考える必要はないのかもしれない。不確かな可能性など大嫌いなはずなのに、何故か頷かせる力を持っている。それはきっと彼が宇宙人だからだろう。


 地球で一番の高台に着いた。そこからは既に海に沈んでしまったビルや街並みが見えていて、あてどない時間の喪失にふと焦燥を感じた。哀れとは思わない。沈んでしまったのはそうなるべくしてなったのであって、淘汰は世界に不可欠だ。
 ただ、もう進むための道が見えないことに足が竦んだ。こんなことは初めてで、やってはいけないと言われたことをやってしまいたくなるなんて愚かな性質ではなかったはずなのに。
 私は振り返ってしまった。
 『それ』は―――亡霊と呼ぶにはあまりにも濃い影で、ギラギラとはしたなく光っていて、必要のない油を吸って肥え太った肉のように醜悪で、覆いかぶさられればその一部になってしまいそうな恐ろしいものだった。

「ミキタカくん?」
「どこ?」

 気がつけば手の温もりが消えていて、どこにも掴まる場所がない断崖で一人立ち尽くしている。彼を呼ぶ声も飲み込むような影が迫ってくる。下に溜まった水は底が見えず、奈落への道にしか見えなかった。逃げる場所はない、影の津波がのったりと襲いかかってくる。

「走れ!!」

 弾かれて階段を駆け下りた!
 背中を押す声に従って、一度踏み外せば転んでしまいそうな階段を飛ばし飛ばし走る。湧き上がる高揚感も一瞬で、やがて最果てへとたどり着いてしまうだろう。ここから落ちてしまったら、一体どうなってしまうのか。

「飛び降りてください」
「無理よ!」
「受け止めますから、僕を信じて」

 耳元で弾けた声に、震える足で地面を蹴った。階段は影に飲み込まれ、間一髪宙に放り出される。やがて誰かの両腕がしっかりと私の身体を抱きしめて、そのまま――ドボン――と湖に沈んだ。真っ暗に見えた水の中は、無数の泡と光がきらきらと、ぐらぐらと、揺らめいていた。

 ―――なんて綺麗なの。

 声も新たな泡になって消える。
 黒い星を砕いて敷き詰めた海に、サイケデリックなアイスグリーンが散らばる。堪らなく美しくて神秘的で、それは、魂に食い込んだ美学や審美まで壊してしまうような色で。気づけば私たちは吸い寄せられるように唇を寄せていた。

 私はそのとき、惑星(かれ)と死んでもいいと思った。


▲▼


 アラームが鳴る前に目が覚めた。
 瞬きを一度した瞬間、夢の中で起きたことを鮮明に思い出す。そしてそれが全て夢だったことに落胆している自分が腹立たしく、起き上がって机の上に放置された教科書を乱暴に閉じた。
 洗面所で顔を洗って身支度を整えている最中も夢のことがちらついてイライラが収まらない。勉強に追われているからってあんな酷い妄想が夢になるとは思わなかった。

 爽やかな朝日が折り目正しく着用した制服に降り注ぐ。朝食でも食べて忘れようとリビングへと降りたら、さらに悪いことに今日に限って学校にも行かず毎夜バイクを爆走させるうちの粗大ゴミ―――もとい兄の裕也がソファーでこちらを見て「ゲッ」という顔をした。朝から見たくもない顔を見てしまい、私の気分も急降下する。
 こんな時間に起きてくるわけがないのでどうせ朝帰りだろう。気取ってコーヒーを飲む姿すら癪に障る。この男は本当に私の気分を害する行動しかしない生き物だ。
 出来る限り視界に入れないように皿に盛られた朝食のラップを外して食べ始める。ほとんど咀嚼せずにさっさと完食してソファーを横切ろうとして、声がかかった。

「オイアンリ、そこの新聞取れよ」
「……………」

 プチン、と音がした。
 ダイニングに置かれた新聞紙を折りたたんで振りかぶり、間抜けな顔面めがけて力いっぱい投げつける。幼稚な攻撃が油断した兄の鼻に見事クリーンヒットして、やっとほんの少し気分が晴れた。

「いってェッ!!何しやがるガリ勉!!オイッてめーもうちょっとお兄様を敬わないとなあ……」

 遠ざかる文句の声を無視して家を出る。なんて無益な時間を過ごしてしまったんだろう。校区の振り分けで入学した中学校に蔓延る馬鹿どもと決別するために、私は進学校に行かねばならないのだ。だから一分一秒も無駄にはできない。
 鞄から英単語帳を取り出そうとして、また夢の光景が頭をよぎる。

「………はぁ」

 溜息が漏れるのも仕方がない。
 昨晩勉強をしている最中、ついに全てを投げ出して家出でもしてやろうかという気分になった。ストレスの限界だったのである。もちろん実行はしなかったが、だからこそあの夢には妙な現実味があった。夢は深層心理の現れというし、根を詰めすぎているのかもしれない。
 実際は都合良く助けてくれる人なんて存在しない。幻に縋る無様な真似はしたくなかった。二度目のため息は細く落ちて、沈んだ気分を正すように真っ直ぐ前を向く。

 そうして角を曲がった瞬間に、私の世界は終わりを告げる。

「うそ」

 朝日に輝くアイスグリーンが。
 私の凝固した意識を破壊する美しい色が、そこにあった。

「なんで………」
「さて、なぜでしょうか」

 夢の水底に置いてきたはずの、都合のいい妄想の産物ではなかったのか。けれどクリスタルのようにきらきらした瞳は夢の中よりも透き通っていて、足元がぐらぐら揺れる。彼の表情が、約束の待ち合わせに間に合ったように微笑んだ。
 震える指先と裏腹に、頬が熱を帯びてくる。今まで培った記憶と成績と評価と、決定したはずの人生観と自我がガラスのように砕ける。彼がまるで当然とばかりに両手を広げた。

「あなたを迎えに来ました。僕を信じて、どうか一緒に来てください」
 
 その腕の中に飛び込むのは、星の海に身を投じるよりも容易い。今度は足も震えていない。早くあの暖かくも冷たくもない温度を感じて、細胞が溶けあうほど抱きしめて欲しかった。
 朝日が反射してきらきらと光っている水たまりを飛び越える。鳥の鳴き声も風のざわめきも聞こえない。

 あなたにもう一度口付けるために、私生まれてきたの。


「宇宙の果てまで連れてって!」



銀河




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