ナポリの海岸通りからは、この世の全ての幸福が詰まっているような青い海が見える。ナランチャ・ギルガは海を眺めながら、飲みかけのスプライトを引っ提げ、高台に這い上がるように広がる市街を歩いていた。 美しいものと汚いものが混在する街―――ギャングを生業にする少年から見たこの街の印象はそんなものだった。例えばナポリにはカフェバールがいくつかある。中でも夜から開くものには、ある特定のサービスを行なうことで有名だ。つまり事実上、現代における娼館というわけだ。
安っぽいカフェテラス席は、いつも一人の少女が掃除をしている。 ぶかぶかのエプロンワンピースに赤毛をおさげにした痩せっぽっちな姿は、モンゴメリの「赤毛のアン」にそっくりそのままだ。そばかすのある頬をいつも煤だらけにして、一生懸命汚れた窓を拭いている姿を、少年は何度か遠くから見たことがあった。 その日もすぐ傍を通り抜ける途中、ナランチャが飲み終わったジュースの缶を路傍に捨てようとしたそのときのことだった。少女はびくびくしながら少年を睨んで、スプライトの缶を突っ返しに来たのだ。
「これ、捨てないで……」 「はっ?ンだよ、急に」 「ゴミ、踏んだら怪我するひとが、いるかもしれないでしょ」
一応明記しておくと、イタリアでゴミを捨てることを気にする者はほとんどいない。街にはそこら中ポイ捨てされたゴミが散乱しているし、ナランチャは今まで缶を捨てることを咎められたことなどなかった。 しかし目線を必死に合わせて缶を押し付ける少女の薄いグレーの瞳を見ていると、ナランチャは何だかだんだん自分が虐めているような気分になってくる。思わずひったくるように缶を受け取ってフンッと踵を返した。 それが最初だった。
次の日、ナランチャがまたその娼館の前を通ると、少女はなんと裸足で掃除をしていた。まだ冬も深いネアポリスの石畳に素足をつけるなどと、想像するだけで背中まで凍りそうだ。せっせと箒を動かす少女の後ろから、ナランチャは思わず声をかけた。
「お前、寒くねーのかよお」 「ひっ!ま、またあなたなの……!」 「な、なんだよ今日はなんも捨ててねっつの!それより足どうしたんだよ、靴は?」 「……破れたの」
新しい靴を買うにはお金がいる、とは口に出しはしなかったが、少女は薄汚れた服と痩せた体躯を見ればそれは一目瞭然だった。少年が洗濯された綺麗な上着を着ていることに気付いたのか、掃除係は恥じ入って俯き、またほうきを動かした。 ナランチャは無意識に自分の足元を見る。まだクタクタに馴染んだとは言えない綺麗なその革靴を買えたのは、パンナコッタ・フーゴが浮浪児同然のナランチャを拾ってくれたから。ひいては上司であるブローノ・ブチャラティが食べさせてくれた一皿のスパゲティのお陰だった。 たったそれだけで人は救われることがあることを、少年は知っていたのだ。
「おい」 「なに?いま、お仕事中で」 「ホラッ」
ずいっと差し出された靴に少女が呆気にとられている間に、少年はまたさっさとと背を向けて行ってしまった。少女はおおいに戸惑ったあと、恐る恐る靴に両足を入れる。するとあまりにもサイズが合っていないので、思わず「おっきい」と小さく笑った。
それから少年は用もないのに何度もそこに通った。年若い少年が似合わない場所なので、少女の仕事が終わったころを見計らって、たまに何か食べ物を持ってきた。腹が減って仕方が無いひもじさも、彼はよく知っていたからだ。 娼館の物置小屋で毎日寒さに耐えながら固いパンを齧っていた少女にとって、甘い果物や暖かいパニーニは夢のような食事だった。ありがとうと言うと少年が照れて眉を吊り上げるので、代わりに娼館の女将が濡れた床で転んでひっくり返った話をしたら、少年はそれはもうめちゃくちゃに笑っていた。ひとしきり笑い転げたあと、今度は意気揚々と自分も話しはじめる。
「この前さあ、俺の同僚のヤツが4つのパンを―――」
お返しとばかりに彼が仕事であった仲間の間抜けな失敗―――ナランチャは流石に何の仕事をしているか口にはしなかったが、アンリは何となくわかっていた―――の話をしたので、いっぱいになったお腹を抱えて笑った。 歳の近い少年と少女が仲良くなるのはそんなに難しいことではなかった。その証拠に二人はいつしか「ナランチャ」に「アンリ」と気安く呼び合うまでになっていたのだ。 休憩を許された数十分の間。緑色のペンキが剥げ落ちた大きなゴミ箱の上に座りこんで話 をするのが、いつの間にか当たり前になっていた。
「……なんでさァ」
やがて笑い声が途絶えたとき、おもむろにナランチャが口を開いた。アンリもようやく笑いがおさまったのか、話に耳を傾ける。
「こんなとこで掃除の仕事なんかしてんだ?」 「……おかあさんが、迎えにくるからって、遠いところにお仕事に行っちゃったの」 「…………はあ?」 「ここでいいこで待ってなさいって」
少女は母親の話をするとき、ぶかぶかの革靴に包まれた足を揺らして、今までで一番嬉しそうに頬をバラ色にした。 それがほんの少し、悔しかったのかもしれない。少女に嬉しそうな顔をさせたのが、目の前にいる自分ではなく何処にいるとも分からない母親だったことが。だからナランチャは、気付いたら口に出してしまっていた。
「来ねーぜ」 「え?」 「母親なんてこねーよ、おめー捨てられたんだぜ、きっと!」
ゴミ箱に寄りかかって吐き捨てる言葉は、少年が思っていたよりも鋭い棘を持っていた。人は自分の保身のためならばどれだけ仲の良い相手であろうと裏切ることができる。母親であろうと同じことだ。こんな汚いところで辛い思いをしているくせに、まだ母親を信じているアンリが気の毒だった。 だがそれは、アンリにとって手酷い裏切りでしかない。心の拠り所であったものを突然「嘘」だと言われれば、心の中に突然嵐のような不安が吹き荒れはじめる。少女は動揺して顔を歪め、まるで最初の日のようにナランチャを睨みつけた。
「………なんでそんなこと言うの?そんなこと、ないもん、お母さん、迎えにいくからって……!」 「あ」 「まってなさいって、」
少女の大きな目からぼろりと涙が零れる。そのまま座り込んだ少女に、少年の顔がやってしまったと一気に血の気が引いた。堰を切ったように溢れて行く涙に、何を言おうとしたか全部ぶっ飛んでいった。ただ立たせようと、やや乱暴に腕を引いてしまう。
「な、なんだよ、泣くなよお、ブッ壊れたシャワーみてえに……!」 「っいた……ッ!」 「!!!!」
つい力を強くしすぎ、石畳に転んでしまった少女にさらに気が動転する。何とか立たせようとしてみたが、少女は足をくじいたのか上手く立てずいやいやと首を横に振った。 結局、ぐずるアンリをナランチャがおぶって娼館まで連れていく形となった。少女は背中で縮こまって時折ただ嗚咽を零すだけで、最後まで一言も喋ることはなかった。
ナランチャはしばらくその娼館に寄り付かなかった。 緊急での仕事が入っていて時間が無かったのもあったが、何よりも後ろめたくて行けなかった。その一方である弱小のチームが、無闇に薬をバラまいて市場を混乱させている事件が続く。尻尾をやっと掴んだブチャラティの気合も一味の二味も違う仕事だった。 ネアポリスに数十人いるらしいメンバーを全て片付けたころ、ナランチャの中で少し少女のことは踏ん切りがついていた。こんなに時間も経ったのだ、謝りに行けばきっと許してくれるだろう。今度は自分で買った花でも持っていけばいいだろうか。そんなことを考えて娼館の方向を見て眠った。
朝方、街はざわめきに包まれていた。
活気のある市場の声とは程遠い、不穏な騒がしさ。なんでも例のチームが経営していた違法な店が、突然一斉にパッショーネによって潰されたらしい。街に多く血が流れ、賢い住人は窓を閉め切って息を殺している。知らされていなかったブチャラティが苦い顔をしてそうメンバーに伝えた。
「お前らもあまり外に出るな。近くでもだいぶ潰されている。カジノ、娼館、酒屋……」 「娼館って……」
みつあみの赤毛が頭にちらつく。 メンバーの討伐をした場所はここからそう遠くない。大通りを挟んで北側のエリアには、ナランチャが住居にしているアパルトメントもある。そしてそのちょうど中間に、あの娼館は存在していた。 そんな、まさか。 ナランチャは過ぎった不安に居ても立ってもいられず、制止の声を振り切ってレストランを飛び出た。
石畳の美しい街には、嗅いだことがないほどの硝煙のにおいが漂っている。これではエアロスミスのレーダーもほとんど役に立たない。走る。走る。スニーカーは走るのは向いているが、あのブカブカの革靴はどこにいる?
あんな弱小チームがよくここまでボスを怒らせたものだと人は囁いたが、それは間違いだ。これは見せしめなのだ。「目に焼き付けろ、これが末路だ」と、敵チームないしは住人や構成員へ向けたイタリア全土に渡る警告に違いなかった。 よって下されたのは、塵芥すら残すなという命令。鎮圧は流血なくして達成されない。だから当然のようにその娼館からも―――人の呼吸は無かった。
「…………」
ガララ、と崩れた壁と銃痕に、少しずつ絶望が募る。ドアの蝶番が悲鳴を上げ、死体の匂いが中から漂う。「アンリ、」震えた声が呼ぶ。何も謝れてないのに、母親はきっと来るだなんて本当に思ってるわけじゃないけれど、泣かせるくらいなら、何か優しいことばの一つもかければ良かったのに。 見慣れた革靴が片一方、そこに落ちていた。自分が使っていたころより綺麗に磨かれている靴。少し、煤をかぶっている。それを見た瞬間身体が震え、力なく膝から崩れ落ちた。
「う、ああ……ッ」
この娼館が潰れたこと、親元が潰れたこと、その引き金の一端を担ったのは間違いなく自分だったのだ!
理不尽な暴力に無意味に抗うほど、ナランチャはこの世界を知らないわけではない。慟哭を飲み込んで唇を噛んだら、嗚咽が血になって溢れた。涙が出る程、感情の整理ができていない。どうしてこの娼館だったのか、そんな問いに意味はない。自分は間に合わなかった。明日きっと会えると馬鹿みたいに信じていたからだ。 大きく息を吸い込めば黒い煙が肺を汚し、咳き込んでゆっくり立ち上がる。そして自分を緩慢に靴を拾い、ドアをくぐった。
いつものゴミ箱は、いつもどおりそこにあるのに。
「…………」
朝の喧騒が嘘のようにネアポリスは静まり返っていた。 蓋に座り込み、目の前の古いがよく磨かれていたレンガの壁を眺める。今はもう煤だらけで汚れてしまっていて、戻らないのだと教えられているようだ。 唇から涙の代わりのように、ごめん、と何度も、零れていく。何に対しての謝罪かなんて自分でも分からない。謝りたかったのだ。消えて欲しかったのはあの時の愚かな自分であって、彼女ではなかったのに。
「ごめん、ごめんな、ごめんなぁ……!」 「……いいよ」 「だって、……はあぁ?!!」
紛れもなく、声が。 まさかもう化けて出たのか、とくぐもったような声に一気に血の気が引く。どんな屈強な相手にだって立ち向かう自信はあるが、幽霊となると話は別である。ゴミ箱の上に完全に乗っかってエアロスミスを発動するが、自分の位置にしか反応はない。
「どどどこだ!!アンリ?!」 「ナ、ランチャ、ど、どいて、どいて……!」
下から声がした。 無言でゴミ箱の蓋から退き、そーっと慎重に空ける。そこからくしゃくしゃになった赤毛とむすっとした顔の少女が、ナランチャを煤とくずゴミまみれで睨んでいた。
「出たぁーー!!」 「出てない!!生きてるの!」
再び蓋を下そうとした少年の腕を必死に押し返して、ゴミ箱から這いでようとしてまた転びそうになる。 ナランチャは反射的に腕をぱっと伸ばして抱きとめた。今度は転ばせなかった、と思ったのは一瞬で、潤んだグレーの瞳と視線が合って硬直する。少女は本当は睨んでいたのではなくて、涙を堪えていたのだ。
「ナランチャ……あの、」 「ま、待った!オレが先に言う!言わせてくれ、頼む……」 「うん、うん……」 「まだ何も言えてねえとか、いろいろ、あるけど、そうじゃなくて……君が生きてて、オレは、嬉しい」 「うん」 「ごめんな」 「う、ん……ッ」
首が取れそうなほど上下にこくこくと、嗚咽交じりの頷きを繰り返す。 少女はあの日足を挫いて以来それを何とか隠して仕事をしていたが、昨夜派手に転んで食事を散らかしてから、この大きなゴミ箱に放り込まれていた。それから暫くして銃声が押しかけてきたから、ずっとここで息を殺していたのだ。 もちろんそれは少年の意図したものではないが、アンリを助けたのはナランチャだった。そして今もこうして飛んで来てくれた。細い腕を背に回ると、少年は無我夢中で折れそうな身体を抱きしめる。
「ああ、オレは決めたぜ。もうゼッテーにくだらねえ意地とかで、後悔しねえよ」 「……ひっく……、どういう、こと?」 「好きだ、アンリ」
少女が呼吸を止めて少年を見た。 真っ直ぐに覗き込んでくる瞳は、夕陽色が黄金の輪を囲ってきらきら輝いている。それはまるで、少女の故郷で太陽をいっぱいに浴びたオレンジの実のようだった。
「好きだ、だから、オレがずっと守ってやる!」
少年の笑顔に、少女はおとぎ話や映画の中にしか居ないと思っていたその存在を確かに見た。ヒロインの女の子になるには随分汚れていしまっているけれど、そんなことはどうだっていい。 ―――ヒーローはいたんだ! 返事の代わりにもう一回抱き着いたら、もう片方の革靴が脱げた。それももう二人の目には映らなかった。
これは少年と少女の、ゴミ箱からはじまる恋の話。
オレンジとリンゴ
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