雪が深々と降り積もる日だった。
 夕食の汁物に手をつけた当主の一人娘が、突然咳き込んで血を吐いたとあって、屋敷は騒然となった。その時ちょうど上方に呼ばれていた側近は、それを聞いて血相を変えて戻ってきた。襖を跳ね開けたその男の形相は、顔を覆い隠す包帯にすら収まらぬほどの険しさで、重鎮の老人たちは思わず唾を飲み込んだ。

「ニコ、早かったな……」
「……!」

 布団に伏せる少女の顔の青白いことといったら、庭に降り積もる雪よりも深刻だ。傍に傅く男の動揺は広い一室を揺らすほど激しい。唇を噛み切りそうなほどだった。
 当主である彼女の父も、数年前にこうして血を吐いて間もなく息を引き取った。食事に混ぜられた毒が原因だったらしい。だからこそまさにその再来と言わんばかりのこの光景に、屋敷一同揃って泡をふいているのである。

「恐らく、同じ毒だろう。台所には信用おける者しか通さんようにと、言うておいたはずだが……」
「……殺してやる……!!」

 老人たちはざわめいた。
 このニコという男は、今は伏せるアンリ自身が突然連れてきた者だった。その時は彼も少年で、全身に酷い火傷を負っていたらしい。顔に巻かれた包帯と、潰れた片目。喉も焼かれているのか、アンリ以外と交流を持っているところを誰も見たことがない。
 そんな素性の知れぬ男、アンリの口添えがなければすぐにも追い出されている。加えてこの男は、育ちが悪いのかどうにも粗暴で、ことアンリのことに関しては全く周りが見えなくなるのだ。

「……なあニコ、わしらは誰も、お前の素顔と名前を知らん」

 老人がしゃがれた声で静かに切りだした話に、ニコは目を見開いた。
 屋敷では誰もが噂することだった。顔も見せぬ、名前も知らせぬ、素性も分からぬこの男。当主が死んだのもニコが来た後だ。つまりニコは今―――「逃亡罪人」の疑いをかけられている。部屋の誰もが、当主とアンリの食事に毒を入れた不届き者の顔を、ニコに置き換えてしまっている。
 自分に突き刺さる疑いの眼差しに、包帯の下で男が顔を険しくした。三白眼の奥でぎらぎらと光る黒目が、無罪を訴えるように揺れている。

「お前ら……まさか、俺がアンリに毒を盛ったと?馬鹿な!」
「そんな声をしていたのか。なんとおぞましい、地獄の底のような声よな。アンリが止めるので言わずにおったが、お前は一体何者だ?」
「それは………」

 男は、真実死人だ。
 荒れた皮膚の上にどっと冷や汗が伝うような感覚に、ニコは身体を震わせた。指先が凍えたようにうまく動かなくなる。膝から力を抜き、焼けた喉からひゅうひゅうとざらついた音が抜け、老人は顔を顰めてニコを追い出させようと控えの者に指示を出そうとした。

「……こ、」

 その時、ぽつりと声が響いた。

「おお、アンリ……!」
「ニコ、ニコ……」

 薄らと唇を開け、少女がうわごとのように男の名を読んだ。ニコはその声に全身の氷が溶けたような気分で、苦しそうに咳き込むアンリを支えた。
 それを快く思わないのは老人だ。気絶しているうちにこの得体の知れない男を追い出そうという算段であったのに、思わぬタイミングで邪魔が入ってしまった。

「アンリ、ニコは」
「ニコ以外部屋を出て」

 有無を言わせない声だった。
 まだ年若いとはいえ次期当主の発言権は強く、誰も反論を唱えることはできない。口惜しそうに二人を見た老人は、自身の側近を連れて部屋を後にした。


 白々しい。
 アンリは靄のかかるような頭を軽く振り、ニコの助けてやっと上半身を起こした。何か言いたげにしている瞳を敢えて遮り、汗の滲む額を一度押さえてから、ぐっと強くニコの顔を引き寄せる。
 聞いて、と声を潜める。紙のように白い顔色が痛々しく、ニコは胸が潰れそうなほど苦しい。それでも一言も聞き逃すまいと耳を澄ませた。

「ニコ、私が信じられるのはあなただけよ」

 あの時、少女が口を開いた時、落胆した者は少なからず存在した。アンリが死ねばあの老人たちの誰かが当主となり、この屋敷や財産を横取りすることもできる。
 けれどニコだけは違う。誰かから与えられた者ではなく、アンリ自身が見出した命だ。この部屋で本当に心から少女の心配をしているのは、ニコだけだった。

「どこにも行かないで」
「ああ、ああ」

 縋るように腕を伸ばしたのはどちらか分からない。それは、それは二人の死人を絶望の淵から蘇らせる、ひとつの救いだった。
 傾倒し、忠誠心を注ぎ、そうとしか生きることができない愚かな男。生きながら籠に囚われ、居場所を探す少女。けれど少年は少年のままではなく、腕の中の少女を守るために何を言われても耐えてきた。それは、決して短い時間ではなかったのだ。

「お前が俺を呼ぶ限り、どこにも行かないよ」

 包帯を生暖かく濡らすのは一人だけ。折れそうな背を抱き寄せて、どうか置いていかないでくれと懇願する声は、どこまでも遠く儚い。けれど十分だった。
 自分はまだ生きていける。
 この少女の声が自分の名を呼ぶ限り、「ニコ」は呼吸をし続けるだろう。


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