少年が退けたのは、過去の幻影だった。 全身を乱雑に包帯で巻いた姿。その下には痛々しく焼き爛れた肌が見え隠れし、右目は傷で潰れている。その凄惨な風貌に群がっていた少女たちは震え上がり、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。 蹲る少女がひとり残る。 周囲にはバラバラと髪の毛の束が落ちていて、震わせる肩の上で無残に切られてしまっていた。塞がれていない片目を細める。
(これは善行ではない)
逃げて、逃げて、逃げて。辿り着いた場所はあの廃墟と変わらぬ場所。少年の傷付いた足でそう遠くまで行ける筈がない。仲間に謀られ、まんまと罠に嵌り、そして唯一にも裏切られ、全て失った。 手をかけた感触はもはや残ってすらいない。こんなものかと、呆気なさに驚いたことだけ覚えている。
「あなた、誰……?」
はっとして息を飲む。 記憶と重ね合わせた虐げられる少女は、涙とも雨ともつかず濡れた目で傍らの影を見上げる。透けるような薄青の白目。嗚呼、まるでライチの実。 これは善行ではない。 いつまでも答えない少年に痺れを切らし、彼女は立ち上がり睫毛を近づけた。虚ろな片目。肉の薄い唇が震え、飛び出たのはザラザラと砂嵐のように不愉快な音だった。
「に、こ?」 「………!」 「ニコ」
けれどアインツ(一番)とは言えぬその名前を、少女は正しく拾い上げた。 色の失せた柔らかな唇が紡ぐ音。まだ熱を帯びる肌とは裏腹に凍りついた魂に、一雫落ちる。 少女は、少年のことを何一つとして知らない。ただ窓ガラスを割ってしまって途方に暮れる子供のような瞳と名前だけが存在し、それが自分を救ったことが確かだった。この男が心底から極悪人であれ、その事実に曇りはない。それ以外欲しいと思わない。 或いは傷を舐め合うだけの温もりだとしても、真っ白な掌が頬に触れたとき、痛みさえも遠い雨音の外にあるようだった。
一つの善行が、罪人の罪を軽くするならば。
「私があなたの蜘蛛の糸になる」
小さくえくぼが浮かんだ。 罪人を地獄から救い出すには、頼りなく切れてしまいそうな細い糸。露を纏って陽光を蓄え、仄暗い廃墟に光る。焼かれた死人は目を閉じてその鼓動を聴いた。 ニコ、と名前を呼ぶ。 呼んでくれ、その名を。友に与えられた力を、神がただ一つ残してくれた価値を。
そうして石川成敏は、自らを象る名を殺した。
糸の箱
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