野球部の掛け声とバットがボールを打った音が、夕暮れの海に浸かる校舎に響いている。授業と掃除の時間が終わり、教室にまばらに残っていた生徒も部活に勤しんでいるか、そうでなければ早々に帰路についたようだった。
 くっきりとしたコントラストの二つの影。
 背の高い男子生徒が黒板消しを叩き、チョークの粉を払って、まだ消えきっていなかった石灰の文字を消していく。背の低いもう一人の日直は、時折ペンを下唇に当てて、日誌の欄を埋めていく。横顔からは重力に従ってまっすぐに落ちる黒髪で隠れて鼻先しか見えないが、すべすべしていそうな肌だけでもつい意識を奪われた。

(こっち向かねえかな)

 と、彼が横目で少女を見たその時。
 不意に顔を上げた女子生徒とガッチリ視線があって、少年は慌てて表情を引き締めた。そうすれば大抵の女子生徒は傷の入った強面に恐々と顔を伏せるはずだ。
 しかし物怖じしない性格なのだろうか、漆塗りに細かく星を飛ばしたよう瞳は、少年に照れくさいほど真っ直ぐ視線を打ちつける。目を逸らしたくなったのはむしろ彼の方だった。
 しかもその少女はそのまま、あろうことか気安く明るい調子で話しかけるので、彼はますますぎょっとせねばならなかった。

「ね、ね、虹村くん」
「アア?」
「今日ってお休みとか早退の人居たかな?」
「いや、アー……確か体育ン時に、ホラ、あの眼鏡のヤツがよ。小鳥遊(たかなし)のちょい前の席の」

 心当たりがあったのか、女子生徒は心配そうに眉を下げた。その様子に不良少年虹村億泰は、うっと身を仰け反りそうになる。
 伏せられた睫毛は美しく扇状に開き、瞬きする度に風さえ起こりそうで、儚く物言いたげな印象を抱かせる。普通の美的感覚を持つものなら、十中八九「美人だ」と言うであろう顔立ちをしているその少女は、名前を小鳥遊アンリと言った。
 男とは少なからず可愛い女の子に弱く、また見栄を張りたがる生き物である。耐性のない億泰は尚更だった。

 アンリは生真面目な字で早退者の欄に名前を書き入れてペンを置く。黒板消しは一つしかなかった。億泰が黒板を消しているのを手持ち無沙汰に眺め、そしてまた、他愛もなく喋りかける。

「虹村くん、アンリの名前知ってたのね。あんまり教室でも話さないし、誰だこいつ!って思われてるのかなーって」
「そりゃあ」

 もちろん知っていますとも!と声高く言いそうになり、彼の不良たる硬派精神がそれをすんでのところで阻んだ。
 きつい三白眼に寄せた眉間、面長の顔のど真ん中でバッテンに走る傷はさらにそれを助長している。自分の風体が「厳つい」自覚は勿論あったし、億泰は同時にそれを「イカしている」と思っていたのだから、それにそぐわない言動は避けたかったのである。これも、一つの見栄だ。
 まして殆ど言葉を交わしたことが無いにしろ、斜め後ろの席から見える横顔を勝手に「アンリちゃん」と呼んで心のアイドル化していたこの少女の前では尚更だった。

「い、委員長だしなァ」
「あ、だから?うふふ、ちょっと嬉しいかも……虹村くん、あんまりサボってると進級できなくなっちゃうわ、とか?」

 口元をちょっとだけ隠して、アンリは喜びを露わに微笑んだ。快活でありながら、うふふ、なんてちょっと気取ってるような、けれどよく似合っている笑い方をする。
 自分に知られていることが嬉しかったのか、と思うのは流石に自惚れかと億泰は頭を掻く。深読みしたり難しく考えたりするのは苦手な性分なのだった。
 さて、とっくに黒板の掃除は終わっていて、気づけば夕日はとっぷりと暮れて暗くなっている。途切れてしまった会話を繋げようとしたわけではないが、振り返った華奢な首を見て思わず。

「なァ委員長、送ってやろうか?」
「えっ!?」

 下手をすれば絡んでいるようにしか聞こえない台詞に、少女は目玉が零れそうなくらい瞼を大きく開き、そのあとにええと、と言葉を濁した。億泰の勘違いでも何でもなく、嫌がっているようには見えなかった。むしろ、と言ってもいいくらいである。
 思ってもみなかった反応に、羞恥が遅れて一気にやってくる感覚が億泰を襲った。窓から射すオレンジ色の光に助けられた思いだった。

「……虹村くんて優しいね……ねえ、嫌いな子に"送ってやろうか?"なんて言わない、よね?」
「お、おお?そりゃあ言わねえよなー」
「なんだ!うふふっ」

 上機嫌に鞄に教科書をつめる少女の真意を、億泰には計り知れない。ただ高鳴る予感に、無意識にぎゅっと拳を握った。今日は鞄を持っていなかったので、そのままポケットに突っ込んで扉をくぐった。
 窓を閉めて電気を消して、日報を棚に入れて、いざ帰ろうとアンリが億泰の隣に並ぶ。爽やかで甘い香りがほんの少しだけ、ふわりと鼻をくすぐる。
 隣を見たらまた、不意に視線が交わった。柔らかく細められた目は、どこかはにかんでいて、億泰は今度こそ耐えかねて視線を逸らしたのだった。


芽生える15分
(欲しいと思った瞬間)



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