まるでおとぎの国の城だった。

 高い天井の広い屋敷。室内は真冬のファーガスからは想像もできないほど暖かく、かじかんだ指先が急に熱を持ってじんじんと痛んだ。磨かれた調度品。絹と毛織の鮮やかな羽織。毛足の整った青い絨毯。床に置かれた丸い器具。煙のように上がる光。
 凍えない魔法の城。
 貴族と学者が見守る席。
 背の高い椅子に座って、子供は言われるがまま手を伸ばした。紫や青や赤の光が螺旋を描き、ひとつの形になる。剣とそれを囲むクラウンは、フォドラ十傑フラルダリウスの象徴。

「まさしく、フラルダリウスの小紋章でございます」
「間違いないようだ」

 深い藍色の髪を持つ男が、鋭い目でしっかりと頷いた。その少し後ろでは同じ色彩を持つ少年たちが、背を伸ばしたままアンリを見つめている。
 なんだか裁判のようだった。
 アンリは椅子に縮こまったまま、喜ばしいとも、厭わしいともいえない彼らの顔をぼんやりと眺めた。貴族の持つ証。手をかざすと顕れる紋章。青空の雷のように降ってきた、生死を分かつ手形。これを持たない多くの貧民は母のように死に、これを持つアンリはただ一人生き延びることができた。

 はたしてそれが幸福だったのか不幸だったのか、その答えをいまだアンリは出せないでいる。








 アンリの朝は太陽が空を照らすころにはじまる。夜明けより少しばかりはやく起き、寝間着を放り出して簡素な服に着替え、なんとしてもあの絹のドレスと櫛を手にやってくる侍女から逃げねばならなかった。
 猫のように足音を殺して廊下をひたひたと歩き、厨房裏にある窓のかんぬきを外して体を滑り込ませる。息苦しく整えられた空気から抜け出した先には、湿った土と朝露に濡れた葉の香りがする秋の空が広がっていた。少女は大きく吸って、ふっと嬉しげに息をはく。一時的な逃亡であっても、自由とは素晴らしいものだ。

 ジャガイモしか育たないような貧しい田舎育ちのアンリが、ひょんなことから王国主要貴族のフラルダリウス家に引き取られてから、早いものでもう5年が経った。アンリは相変わらず一人で食事をし、家庭教師に勉学の教えを受け、それなりに酷い成績を重ねながら生活をしている。
 当主ロドリグの庶子として認知されたのは、小汚い孤児のアンリが唯一持っていた財産───フラルダリウスの小紋章のおかげに他ならない。恐らく数世代を遡ってお手つきになった使用人の子孫が隔世遺伝を起こしただけの代物だったが、紋章の有無で継承権が決まりさえするという貴族社会において、アンリの存在は無視できるものではなかった。
 母親を失ったみなしごへの同情か、仮にもフラルダリウスに連なるはずだった一族への憐れみか。ロドリグは愚直にもアンリを養子でなく庶子とし、教育を施し、役に立たない貴族の子女として見事に飼い殺していた。

(わたしがここに住んでること、誰が知ってるのかな)

 屋敷の庭と違い整えられていない林道を歩きながら、アンリはぼんやりと考える。ロドリグは引き取った手前たまに顔を見せてくれるが、兄ということになったグレンやフェリクスに至ってはほとんど会うこともない。たまたま一緒の建物に住んでいる他人も同然であった。
 それは仕方がないと思う。
 あの吹きすさぶ凍った風のなか、指が腐らないようさすりながら過ごす夜。母の稼いだひとかけらのパン。擦りきれそうな毛布しか知らない。アンリがいくら絹のドレスを着たとしても、暖かい暖炉のそばのベッドで眠っていた人たちと同じになれるはずがなかった。

 フラルダリウス家の人たちは慈悲深く辛抱強いと思う。役立たずの子供でもこの天国に置き場を用意してくれる。アンリは女神の指が気まぐれに示した幸運な娘なのだろう。
 それでも野の香りが恋しくなって、こうしていつも抜け出してしまう。なにもかも脱ぎさってしまいたくなる。不思議だった。アンリにとっての故郷は寒く厳しく、自分を苛む場所だったというのに。

「こんな早くから朝の散歩かい?」
「………?」

 林のなかにふたつの像。
 すこし離れた場所からかけられた甘く優しい声に、アンリはふと振り返った。柔らかい炎のように赤い髪。よれても仕立てのいいシャツ。艶々した羊革のブーツ。女の子のように整った顔に、育ちの良さそうな笑みが浮かぶ。快活にかさかさと落ち葉を踏みながら歩みよってくる少年に、少女はまともな反応を返せなかった。

「おーい、そこのお姫様」
「あ………なに?」
「ぼうっとしちまって、寝てるのかと思った。君、ここの屋敷の子だろ。眠いんなら近くまで送って行こうか」
「……戻るのは、その……」
「戻るのは嫌?」
「うん」
「そっかそっか、そりゃいいな」

 なにが「いい」のだろう。
 アンリはすっかり混乱していた。この背の高い赤毛の少年は、どうして自分にこんなにも親しげなのかさっぱりわからない。仕草や言葉ぜんぶがあまりに好意に満ちていて甘ったるさすら感じる。まるで口のなかにいきなり蜂蜜を注がれた気分だった。
 屋敷に来てからはてきぱきと仕事をこなす侍女と、ため息をつく教師と、たまに様子を見に来るロドリグと、それから気まずげな顔を並べる兄たちとしか会っていない。他人の笑顔なんて特に久々に見たものだった。アンリはひどくこもった熱と戸惑いを感じながらこわごわと口を開く。

「それなら俺と二人で、少しこのへんを散歩するのはどうかな。朝焼けが綺麗に見えるとこを知ってるんだけど」
「あの、わたし、あなたと」
「うん?」
「はじめて会うのに、なんで?」
「それはもちろん、一目見て素敵な君に夢中なったからさ」

 少年が端整な顔にまぶしい笑顔を浮かべて並べる言葉に、アンリはなんとなく冗談のような軽さを感じとった。寝起きでぼさぼさの髪のまま顔も洗わず、質素なワンピースをひっかけている自分を見下ろし、いくぶんホッとする。“素敵”とは程遠い。ひょっとしてはじめからぜんぶ冗談のつもりだったのだろうか。
 やがて曖昧に頷くと、少年は嬉しそうに微笑んでとても自然に手をとった。それにまた驚いている間に、鍛えられた手のひらにぎゅっと握られて言葉を失う。笑顔。親しげな声。肌の温もり。こんな簡単なことで泣いてしまいそうになった。数年の間ずっとアンリから遠ざかっていたものが、いくつもそばにあるせいで。

「俺はシルヴァン。君の名前は?」
「……アンリ」

 アンリ=エル=フラルダリウス。いまだ馴染まない仰々しい名前。震えた声で返された響きに、赤毛の少年───シルヴァンは大きな飴色の目を丸くして、朝露の輝くような笑みを浮かべた。


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