越知月光から見た黒霧ケイという少年は、ことテニスの関しては凡庸そのものだった。氷帝学園にはその分野において将来を期待された傑物が集まるなかでは、パワーやスピードもどこかいまひとつで、なにより相手に勝ってやろうという気概に欠けていた。 それでも彼は良い友人、良い後輩だった。部活に早めにきて掃除を手伝い、部室の整頓や雑務もこなした。心無い者は「マネージャーの方が向いている」なんて悪気もなく言ったが、それでも彼はあっけらかんと笑っていた。互いをライバル視しすぎる雰囲気のなかで、黒霧はただ懸命にテニスをしていたのである。そのひたむきさが、越知には好ましかった。
そんな彼が一年の半ば、健康上の理由で休部すると知って、越知は少なからずショックを受けた。お世辞にも人付き合いが得意とは言えない彼にとって、気軽に笑いかけてくれる黒霧は貴重な存在だったのだ。 なにより、彼の連絡先や、どこに住んでいるのかすら、越知は知らなかった。自分の無頓着さをこの時ほど恨んだことはなかった。
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半年経った春先のこと。 黒霧が2年に進級と同時に復帰すると聞いて、越知は純粋に喜んだ。口下手な自分でも復帰祝いという口実があれば、話しかけることも容易だろう。 そう思って部活に出席した彼は、目の前に広がる光景に立ち尽くしている。理解が追いつかないのは、どうやら彼だけではないようだった。
「あれ……黒霧なんだよな?」 「嘘だろ、だって正レギュラーだぜ」 「待てよ、俺最初から観てたんだ。黒霧のやつはじめはぜんぜん負けてたし、先輩だって余裕だったんだ。なのにーーーなんで先輩が負けてんだ?」
膝をついているのは3年。 コートに立つのは黒霧。 中肉中背の、特に恵まれているでもない体格。ラケットを持つ腕の太さも変わりない。呆然と立ち尽くす後ろ姿を見て、越知はなぜか背中が寒くなった。
「先輩、もしかして今日は調子がよろしくありませんか?」 「え? あ、ああ、そう……かもな」 「ああやっぱり、都合よく行き過ぎだなと思ったんですよね。すみません、そんなときに無理言っちゃって」 「いや、構わないさ。復帰祝いだ」
黒霧は申し訳なさそうに苦笑いをし、3年の腕を引っ張って起こした。ざわついていたコートの緊張がほどける。きっと黒霧が久々に試合をしたくて先輩に頼み込んだが、彼はコンディションがよくなく途中で力が抜けてしまったのだろう。今の会話で周囲はそう解釈し、二人に気安く声をかける。 だが、果たしてそうなのか? いくらコンディションが悪かったといっても、あれほどの実力者である彼を黒霧がまぐれで負かせるだろうか。途中までは一方的な試合だったという。それをそう簡単にひっくり返せるものだろうか。先輩の面子は保たれ、戦いの火の粉が飛ばない勝負。何もかもうまく収まりすぎて、それがかえって奇妙にみえた。
「黒霧」 「やあ、越知!久しぶり……おおう、相変わらずすごい迫力だな」 「復帰おめでとう」 「ああ、ありがとう」 「具合はもういいのか」 「前よりいいくらいだ! 心配してくれてたって、他のやつに聞いたよ。本当にありがとな」 「いや……」
前に見たときよりも、顔がすこし青白い気がする。あまり外に出ていなかったのかもしれない。それでもは試合の余韻かちゃんと赤みがさしていて、本当に楽しそうに笑っている。 「楽しそう」か。 思えば黒霧が笑顔を絶やしたところはあまり見たことがない。その代わり悔しそうにしているところもないが、今のように楽しそうだと感じたのは初めてかもしれなかった。
「楽しいのか」 「楽しい?」 「そう見えたが」 「ああ、そうか。そうかもな、うん……そうかそうか、これが勝ちってものか」
彼はに笑った唇をさらに吊り上げて、ぶるりと全身を震わせる。それはほとんど陶酔しているといってよい顔つきだった。そのあまりに尋常ではない様子に越知は一瞬硬直してしまい、肩に手を置いたときには黒霧の顔はけろりとしていた。 近くで見るとやはり目元がつるりと白い。それがなんなのか越知には分からなかった。ただ離れていた間に、彼のなかで決定的ななにかが変わっているのを感じたのだ。
黒霧はその後、日を変えて正レギュラーや準レギュラーとタイミングが合えば試合を申し込み続けた。その試合を見ていた部員たちはいつしか「まぐれ」という言葉を口にできなくなっていた。 しかし勝ち方がまた奇妙だった。 誰と試合をしても、黒霧ははじめ相手に点を取られ続ける。たまに接戦になることもあるが、彼は常に劣勢だった。観戦している者もこれは負けるなと思うのに、最後に勝っているのは黒霧で、時にはすさまじく長い試合ののちにルール上は存在しない「引き分け」になることすらあった。
「黒霧のやつ、たぶん休学中に秘密特訓でもしたんだぜ」 「すげえ有名なコーチに教わったとか聞いたけど、違うのかな?」 「入院してたのは本当らしい」 「本人は話さないし」
ああだ、こうだと。 噂ばかりが走り回ったが、黒霧が良き友人であることに変わりはなかった。そして彼は当然のように良き先輩でもあり、生意気な後輩の面倒をよく見た。体格やタイムにあまり以前と差はない。ただ勝ち星だけが燦然と輝いていた。
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初夏のテニスコート。 来たるレギュラー選抜試験において、いつも以上の波紋が広がっていた。脱落するもの、のし上がるもの。悲喜こもごものテニスコートでの試合を経て、黒霧と越知の両名はついに正レギュラーに名を連ねることとなる。
「越知と一緒にレギュラーになれるなんてまだ信じられないよ。ま、頼りにならない同期だけどよろしくな」 「……それは違う。俺はお前がレギュラーになるだろうと思っていたし、頼りにもしている」 「おお、本当か、照れるなあ」 「戦いたいとは思わないが」 「アハハ……」
黒霧は笑っている。越知の発言について思うところはあったのか、すこし含みのある笑い方だ。それでも別に構わなかった。彼がどう変わっていたとしても、心の中でなにを考えていようとも、今も昔も自分の友人だ。 越知は意を決して一歩踏み出すことにした。中学高校と合わせて5年目になる付き合いの友人に対しては、とても今更すぎる一歩を。
「黒霧」 「ん?」 「テニスは楽しいか」 「楽しいよ、もちろん」 「なら、頼みがある」 「なんだ、言ってみたまえ」 「……電話番号を教えてくれ」 「……いいよ」
黒霧は訝しがりもせずに「でもなにが"なら"なんだ?」とあっけらかんと笑った。それはやはりいつもと変わらない、凡庸な少年のものだった。
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