「天司」とはルシファーが原初に作りしルシフェルが名付けたものである。創造主はともかく己が不要としたものに無頓着だったので、"天と星の狭間のもの"という意味で彼がそう呼び始めた。
 天司長ルシフェルはルシファーが捨て置いたすべてを兼ね備え、ひとつも余すことなく運用するための存在である。彼はまったく聡明だったので、神のように振る舞うことはせず、足りない手足を増やすかのごとく天司たちを創造した。ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル、サンダルフォンがそれにあたる。

 ルシファーは救世の神ではない。
 彼らが善意とするならば、ルシファーがその間に生み出した者たちは悪意と混沌の化身だった。彼は独自の進化論に基づき―――ルシフェルには隠匿される形で―――穏やかな湖面に石を投げ込むための悪意を創造した。かの星の民はやはり研究者だったのである。

 ケイは天司たちのやや後に、はじめから成体として生み出された。彼は管理者の補助機関として設計され、天司たちとルシファーの連絡役であり、使役するための道具であり、兵器でもある。
 司るのは「智覚」。
 つまりはただの感覚器官。
 他の天司たちとは比べものにならないほど僅かな自我しか持たず、いわば高度な性能を有す人形。大きな感情や強い欲望は、ルシファーが不要としたために備わっていない。天司には天司の、道具には道具の役割があるからだ。


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「またルシフェルのところか?」

 到達不能空域、カナン。
 天司たちの神殿が居を構えている天国の門。その回廊を歩くケイの纏められた金の髪に、影がふらりと落ちた。均整のとれた男性的なシルエット。端麗な顔立ちのその男は、抱えられた本を勝手に一冊持ち上げてぱらぱらと捲りはじめる。
 ルシファー直属の黒い天司。
 その名をベリアルという。

「ミカエルは勉強熱心だな」
「いや、今はサンダルフォンだ」
「サンダルフォン……?ああ、天司長様の「スペア」くんか。ふうん、もう机に向かえるようになったんだな」
「出来がいいからな」

 ケイは命じられるまま、ルシフェルの補助に回っていた。大規模な実験でも行わない限りはルシファーに召喚されないので、この天司はほとんど天司長の補佐のような役割を務めている。仕事は多岐にわたるが、今はまだ若い天司たちの教育が主だった。
 ミカエルがケイの教えを受けていたのは、もう百数年も前のことだ。天司たちの時間への無頓着さは、きっと星の民譲りなのだろう。

 ベリアルはすぐに興味を失ったかのように本をケイの腕にそっと戻した。炎が燃えるような瞳に見つめられても男は平淡な調子で答え続けるが、ベリアルはそれも楽しんでいるようだった。
 彼は―――彼はひどく退屈していた。
 平穏を乱すには平穏を待たなければならない。皮肉な話だ。もの知らぬ空の民に戯れに叡智を与えるのにも飽きてしまった。本命がダメなら代替を用意するのが道理というものだろう。

「ケイ、オレの手伝いもしてくれないか?」
「お前の? 一体何のために?」
「ああ、感傷に溺れない質問だな。教えてあげてもいいが、キミにはきっと理解できないよ。衝動的な欲望に突き動かされたことなんてないだろうし………そうだな、"困ってる"じゃダメかい?」

 嘘なのか煙に巻かれているのか、瞳を覗いてもまったく分からない。記憶を辿る限り、彼が何かに苦労しているところをケイは見たことがなかった。先ほど口を出た"出来がいい"という言葉は、真実この男にこそ相応しいだろうと思うくらいだ。
 林檎の蜜の甘さを囁く蛇のような、ぬらりとした声が鼓膜を撫でる。ベリアルの色のない指先が、抱えている本で身動きの取れない男の喉元から鎖骨を辿り、ゆっくりと胸元に滑った。誘惑と思惑が透けるしぐさ。そんなものは蝋人形には関係ない。求める者には与えられなければならないからだ。
 
「俺は天司のためにある、好きに使え」
「いいね、燃えてくる」

 本来、天司には空の民のような生命活動は必要ない。それでもルシファーが精密に星の民を再現した肉体は、すべてが過不足なく完璧に揃っている。
 平和と退屈を持て余した邪悪に目を付けられ―――頷いたケイは、この美しい男の驚くべき悪徳と淫蕩さを甘く見ていた。他者を堕落させるためだけに生み出されたのが、このベリアルという男だというのに。


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「あれに余計なことをしたのはお前か」
「えぇ?オレ、空に何かしたっけ」
「ケイのことだ」

 創造主が苛立たしげに美麗な眉をしかめる。ルシファーが天司たちに忠誠を求めないとはいえ、不作法に足を組んで腰掛けたままのベリアルは訳知り顔でにこりと微笑んだ。
 空よりも赤き地平にほど近い領域には、闇の微睡む門なき城がある。元々は古代の竜のために建造されたものだったが、今は崩れ落ちるのを待つばかりの廃墟であった。寂れたここをベリアルが気に入り、支配とは名ばかりの棲み処にしてしまったのである。
 そばにあった頭部のない石像の縁を、男の指先が遊ぶようになぞる。ルシファーは静かに佇み、ただ銀の髪がわずかに差し込む赤い光にちらちらと光っていた。

「ファーさんも酷いな。あんな面白そうな物、なんで俺に貸してくれなかったんだ?」
「それを今後悔してるところだ。与えなかったことがかえってお前の気を引いた……」

 そのように造ったのは外ならぬ彼だったが、それにしても誰も彼も予想より優秀に動くものだから始末に負えない。ルシファーは"使い物にならなくなった"ケイをどう使うべきかと、その悪魔的な頭脳を働かせて最適解を探っていた。

「もうルシフェルの元には置けんな」
「何で?居させときゃいいのに、勿体無い。四大天司もスペアくんも結構懐いてただろうに」
「裏切らせるにしても『もう少し後』の予定だった」

 まだ空の管理は完璧ではない。全てが片付いてからでないと仕事が滞るだけだ。中途半端になったずさんな計画にはそれなりの結果しか現れない。ケイがこのベリアルに唆されてしまった時点で、彼の運用方法は変更を余儀なくされたといっていい。
 誘惑者はそんなことはお構いなしに黒い羽を楽し気に揺らす。ベリアルとてルシファーの配下だ。命じられればそれを実行する義務があるし、それに背くつもりもなかった。

「……まあいい。今後は堕天司として扱う」
「あ、俺にくれるの?」
「馬鹿を言うな。私の研究にもあれは必要だ。天司たちの智覚はお前が修正しておけ。来るべき時が来たら―――存分に働いてもらうぞ」

 血のような残照がルシファーの姿を染める。外套が風になぶられて広がった瞬間、朽ち果てた城から彼の姿は影までも消えた。
 すると宙に腰かけたままのベリアルの背後から、砕けた石壁をガラガラと踏みつける音が響く。長い金髪を纏めることもせずただ後ろに流した姿のケイが、ばつの悪そうな顔で自身の繋がった首を撫でた。

「廃棄は免れたみてえだな」
「何だ、竦んでたのか?恐怖も抱くようになったとは結構なことだ!廃棄するって言われたらどうする気だったんだ」

 男はピンと片眉を跳ね上げて考え込んだ。もう本を抱えることもなければ、天司たちに教えを授けることもないだろう。役割を放棄して存在意義を失ったとして、ケイは与えられた大人しく死を受け入れただろうか?
 彼は否、と答えるだろう。
 辿り着けばすんなりと腹に落ちる答えだと思った。自我を持たず、私欲を持たず、ただ道具として在ったはずの機関は今度は迷いなく口を開く。

「殺せそうなほうを殺して逃げるかな」
「ハハハハハ!!!」

 ベリアルは腹を抱え、端正な顔を大きく歪めることも厭わずに大笑いした。この蝋人形は一体いつからこんな傲慢を持つようになったのだろう。彼のなかで霞のようにしか存在しなかった欲望が膨れ上がった瞬間を考えると、喉の渇きが潤うかのような愉悦が全身を走っていく。
 "その時"殺されるのは誰か。
 "そんなもの"は決まっている。
 結局誰も血には逆らえない。けれどケイがその兵器たる力を持って牙を剥くと言ったことが重要なのだ。バグを起こした機関。棄てられるはずの致命的な欠陥。その偏りこそがベリアルの求めていたものなのだから。


 その日、天司たちは一人の男の存在を忘却した。教えを乞うた誰か、共に過ごした誰かを。残ったのはルシフェルの傍にいた何者かが、彼の元を去ったという感覚だけだった。




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ものすごくフワフワした知識で書いたので色々見逃してください!

 

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