07:夕日色のゆめ
オビトの言葉通り、私は晴れて自由の身となった。
と言っても、恐る恐る外へ出てみれば、自分は薄ら寒いどこかの山間にぽつんと取り残されたということを知るばかりで、全く晴れ晴れとした気持ちは湧いてこない。
しかし、久々の外界の空気は私に悪くない変化をもたらしたのか、仕方なくそのまま一晩明かす間、彼へのやるせない思いは、やがて一言物申してやろうという気概へと変わっていった。
翌朝、白み始めた景色の中、そんな私を出迎えたのは、前にも会ったあの奇妙なヤツで。
「なんだ、お前、まだいたのか」
「アンタは…この間の…!」
地面からにょっきり生えている、白いヤツ。
前も訳知り顔で色々語ってくれたコイツを、私は問い詰めた。
「ねえ、オビトはどこにいるの?これから何があるっていうの?」
それに対し、返ってきたのは、やはりこの間も見た、気味の悪い薄笑いで。
「戦争だよ」
***
「……はぁっ、オビトっ、どこにいるの…!」
谷を越え、林へ分け入り。
あのゼツとかいうヤツが懇切丁寧に教えてくれた通り、私は彼を追っていた。
戦争、尾獣、それに、計画。無限月読。死んだ人にだって会えるという、夢の世界。
俄かには信じ難いことばかりだ、でも彼はきっと今も、彼女のことを。
風を切って駆けるうち、頭上には夜の深い闇が垂れ込めてきていた。
長らく忍らしいことと無縁だった私は、何日も走り続け、体力の限界が近かった。
ふと、急に視界が開けていく。
「ここは……」
眼前に広がるのは、広く静かな湖。
見ると、穏やかに揺れる水面に、夜空の星々が映り込んでいる。
「綺麗……」
こんなときでも、いや、こんなときだからこそ、その美しさが胸に染入るようだった。
腰を下ろし一息つくと、ざわあ、と、一陣の風が吹き抜ける。
湖には細やかなさざ波がたち、湖上の夜空はゆらゆらと星をはためかせた。
なぜだかその光景に、あの懐かしい海辺の景色を見た気がして。
「オビト……」
彼があの海辺に姿を現し、そして“オビト”と、名乗ったあの日。
あれから目まぐるしく日々が巡ったようで、けれども、今更のようにじわじわと、思い知る。
「あなたは……生きていた……」
驚きが大きすぎて麻痺していた感覚が戻ったかのように、込み上げる。
死んだと思っていた。そして彼自身も、もう以前の彼は死んだのだと言った。
そんな世界に絶望して、これから愛だけの世界、優しさだけの世界に行くのだと。
そのために、これから命を懸けて戦うのだと。
「お願い……死なないで……」
神様どうか、あの人を、殺さないで。もう二度と、あんな思いは。
ただ今は、それだけ。首から下げたペンダントを握りしめ、願をかける。
彼に引き千切られたペンダント。あの後どうにか継ぎ合わせ、ほとんど元通りの姿で揺れている。
これから私が彼を追いかけて、なにかどうにかなるのかなんて、分からない。
話が大きすぎて、もし追いつけたとしても、それからどうなってしまうのか、なにが起きるのか、分からない。
それでも今は、あなたに会いたい。もう一度、あなたに、会いたい。
「言ってやりたいことが、まだ言ってないことが、たくさんあるんだから……」
そのとき不意に、身の毛がよだつような、妙な感覚が全身を駆け巡った。
水面がやけに眩しく光った気がして目を細めると、いつの間にか、そこに大きな満月が浮かんでいる。
どうしてかそこから目が離せず、瞬きもせず見つめていると、いつしかそれは赤味を帯びていく。
奇妙な感覚が強まる。しかし、目が逸らせない。じっと見つめ続ける、いや、違う、見られている。私の方が、見つめられて――?
***
キャアキャアと、鳥が鳴いている。
晴れ渡り澄んだ空の青に、飛び交う白が眩しい。
どこまでも続いていそうな海原の向こうから、心地よい風が運ばれてくる。
ほどよく熱された砂浜を、裸足で歩いていた。歩く度、足跡が点々とついていく。
どこからか、カモメ以外の声が聞こえてきた。顔を上げると、遠くに人影が見える。
距離がある割に、その顔は徐々にはっきりとしていく。男の子と、女の子だった。
ゴーグルをした少年は、長袖長ズボンの恰好で、腕まくりをして、少し暑そうだ。けれども、とても楽しそう。
一方一緒にいる女の子も、肩につかないくらいの髪をふわりと靡かせて、綺麗に笑っている。
波打ち際で戯れる二人の足元に、眩しい飛沫が弾ける。眩しい笑顔が、弾ける。
あまりに綺麗な光景だったから、私はずっと二人を見ていた。遠くから、ずっと見ていた。ずっとずっと、時の流れも、忘れそうなくらい。
しばらくして、二人が遠く去って行った後、私もゆっくりと海岸沿いに歩を進めた。
途切れぬ砂浜に、いつしか日も傾き、茜色の夕日が差してくる。
どれほど進んだ頃か、変わり映えのなかった景色の中にどこか懐かしさを見つけ、足を止めた。
透明な波が寄せては返す海と砂浜の境に、見覚えのある小さな文字と傘が、うっすら残っている。
ト
ビ
オ
隣にあったはずの文字は、掠れてもう読めない。ひどく胸を掻き毟られる気がして、私は上から指を走らせた。
ト リ
ビ
オ ン
そうして新たに刻まれた、先程のあの二人の名前。私はひとり、微笑む。
「名無子」
誰かが、消えたはずの私の名を呼んだ。振り向くと、そこにいたのは、
「オビト」
さっきまでとは違う、顔に傷のある、あなた。
眉を寄せた顔が夕日に照らされて、オレンジ色に染まっている。
ややあって、何か言おうと開きかけた彼の唇を、私は制した。
「もう何も、言わないで」
二人並んで、立ち尽くす。そこではじめて正面から海へ向かい合い、沈もうとする太陽を直視した。
赤々と燃え盛る太陽、何もかもを朱に染め上げる太陽、でもそれは今、“太陽”ではなかった。
あの夜の湖に映った、赤い月だった。不気味な模様の浮かんだ赤い月が、今まさに、水平線に沈もうとしていた。
言いたいことはたくさんあった。言ってやりたいことが、今言わなければならないことが、たくさん。
けれど口は震えるばかりで、やっとの思いで絞り出した言葉も、震えていた。
「オビト、好きだよ」
――今でも。
そう私の唇が形作った瞬間、沈みかけた月が弾けて、一気に溶けだす。
半熟の目玉焼きをつついて、弾けた黄身みたいに。どろりと溶けだした満月が海へと流れ出し、一面が赤のような、朱のような、茜のような夕日色に、染まっていく。
「名無子……」
彼が何か言いたげに、こちらへ手を伸ばす。
私も彼に応えるように手を伸ばした、けれども、あと少し、届かない。
微かに動いているのが見えた口元も、表情も全てが塗り潰されて、届かない。
「 」
溢れ出した赤い空へ、どこへ続くかも知れない広い空へ、白い翼が飛んでいく。
あの日砂浜に墜ちた、羽の砕けたカモメが、たったひとりで飛んでいく。
(2015/04/20)