06:なり損ねた女



あれ以来、彼はめっきり姿を見せなくなった。
といっても、今は明るいから多分昼間だとか、暗くなったから夜だろうとかそういうことを除いては、ここでは時間の経過を測る術がないから、どれくらい経ったかはっきりしないのだけど。

相変わらず外出することは叶わない。
ただし決められた範囲でなら自由に行動できたから、勝手に色々散策させてもらった。

それでついこの間、書物が山積みにされている埃っぽい小部屋を発見したものだから、そこからいくつか拝借して暇潰しに利用している。

初歩的な忍術書から何が書いてあるのかサッパリな専門書まで幅広くあったから、ちょうどよかった。
なにか考えていないと、ふとした瞬間、彼のことを考えては、何かが込み上げそうになってしまう。
それを紛らわすためにも、あえて小難しそうな本を開いてみたりした。

それでも当然、こんな生活がよくないことは明らかだった。
自分でも多少、情緒不安定になっているのが分かるし、身体にだって悪影響が出てもおかしくない。

現にここ最近は全然眠れなくなってしまって、無理矢理読もうと書を手に取り、そのまま寝てしまうことが続いていた。


しかし、改善のしようがないのだから、どうしようもない。
今日も古ぼけた兵法書を引っ張り出してきて、寝台の上に寝転びながら開いていたところ、案の定、半分以上進んだ頃に、私の意識はゆっくりと閉じていった。



***



『うえ〜ん、ふえぇ〜ん』

『ね、ねえ、どうしたのっ?』

道端で、小さな男の子が泣いていた。
ほっとけなくて声をかけたはいいものの、泣いてばかりで、どうしたものやら途方に暮れた。

『名無子?どうしたの?』

『あっ、リン…!』

『うう…グスっ…』

『……ここ、怪我したの?ほら、大丈夫だよ』

『…………』

『……どう?もう痛くない?』

『…ふ…うん…』

『…よかった…』

『……う…おねえちゃん、ありがとう…』

『どういたしまして。今度は怪我しないように、気をつけてね』

『うん!』

私は何もできなかった。
駆けて行く男の子を見送って、ありがとう、とリンに言ったら、彼女はまた、眩しい笑顔で笑っていた。

私はいつも、そんなリンに憧れていた。リンが好きだった。
私もあなたに近づきたい、あなたみたいになりたいって、ずっと思っていた。


ねえ、リン、あなたならどうするの?

あなただったら、きっと彼のことを、変えられたでしょう。

教えてリン、私は一体、どうしたらいいの。



***



「――リン………」

夢と現実の境界で、リンを呼ぶ自分の声が聞こえた。

目元のあたりに妙な、強張るような、張り付くような感触を感じ、ああ、自分は泣いていたのかと、ぼんやり気がつく。
徐々に目を開けてみると、部屋の中はすっかり薄闇に包まれていた。

とりあえず身を起こし、手探りで灯りをつけようとしたときだった。

「………っ…!」

「……起きたか……」

暗い部屋の中に、彼がいた。

「……オビト……」

しかし、今日はあの、渦巻き模様の仮面をしていなかった。
暗がりの中に、海辺で一度だけ見た、傷のある顔が薄っすらと浮かんでいる。

部屋の片隅で簡易椅子に腰掛け足を組んだ彼は、よく見ると、いつもの黒い外套も着ていなかった。初めて見る、けれどもなんとなく、いつかどこかで見たような、そんな暗い紫色の装束を身に纏っていた。

張り詰めた空気の室内に、しんしんと沈黙が降り積もる。

大分暗闇に慣れてきた目を擦っていると、静かに彼は立ち上がった。

無言の彼が一体何をするつもりかとじっと見ていると、迷いなくこちらへ歩み寄って来る。そうして最初からそう決まっていたかのように、彼は私の肩に触れ、寝台に押し倒した。

「やっ…!」

流石の私も、この状況で危機感を持たないほど馬鹿ではない。
覆い被さる体を必死で押し退けようとするが、そのまま両手を掴み取られ、彼の顔が息がかかるほど近づく。

「…っ、なに、するの…っ!」

足を動かそうとしても、のしかかられて下半身はろくに動かせない。
せめてもの抵抗として顔を逸そうと首をよじると、耳元で微かな声が響いた。

「……抱いてやるよ、名無子……」

それがあまりに、感情のこもっていない声だったから。
恐れなのか、悲しみなのか、自分でも分からない、心臓を掴まれたような、苦しさが込み上げた。

「やめ、て…っ、」

「フ……お前はオレが好きだったのだろう、名無子」

「いや、だ…ッ!」

耳打たれる残酷な言葉に流されまいと、我武者羅に藻掻く。

「…ぁ……?」

不意に、胸の上に伸びていた手が止まった。衣擦れの音に交じって聞こえた高い音に、一瞬遅れて、事を悟る。

「………邪魔だな……」

「いやっ、駄目っ!」


ギチィ、だったか、それとも。もっと鈍いような、鋭いような、耳障りな音がした。


「ああっ…」

もう一度だけ高い音をたてて、私の胸にあったペンダントは、床へ落ちた。


「いや………」

拘束を解かれた両手で、自分の顔を覆う。
もう、目尻に溢れ出ようとする涙を、堰止めることはできなかった。

「――リン…っ」


ギシ、と。
寝台の軋む音がして、身が軽くなる。

「……っ?」

見ると、彼が身を退いて、既に背中を向けていた。
そこには、昔木ノ葉の里でよく見かけた、団扇の模様があった。


「………お前はもう自由だ……」

「………?」

「ここの結界は解いた…錠も全て外した……何処へなりと去れ……」

何を言っているのか飲み込む暇もなく、彼の背中は、歪みに巻き込まれて消えた。


「……………」

ひとり残された部屋の中で。
しばらく彼のいなくなった空間を眺めた後、涙を拭って、寝台を降りた。

床の上に、引き千切られたペンダントが落ちている。

拾い上げようとして身を屈めると、すぐ傍に白い破片が散っていた。
ペンダントの真ん中を飾っていた白い翼の先が、無残にも欠けた姿を晒していた。



(2015/04/12)


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