02:幼い手のひら
『あっ名無子!ちょっとこっち来て!』
『うん?どうしたのリン』
『ふふ、はいこれ!誕生日おめでとう!』
『えっ、ありがとう…すごく嬉しいよ…!』
『よかった、早速開けてみて!』
『うん!……わあ…可愛い…つけてみていい?』
『もちろん!あ、わたしつけてあげようか?』
『うんお願い!』
『…………はい、できたよ!とっても似合ってる!』
『ほんと?……ありがとうリン、大切にするね…』
***
静かだ。とても静かだ。
いつもは意識せずとも延々と耳を通り抜けていた波の音までもが、気配を消してしまったようだった。
ただ、薄ぼんやりとした意識の中を、幼かったあの日、私の首にそっとペンダントをかけてくれた懐かしい面影が過っていった。首に回されていた小さな手のひら、その幻影をなぞるように自分の胸元に手をやる。今もなお、大事に身につけているそれを確認しようとした私の指先は、しかし、何者かによって阻まれた。
「――……?」
自分のものより、いくらか大きな手のひら。それが私の指先の行く手を遮っている、いや、それどころかむしろ、この何者かの手は、明らかに私が掴もうとしたそれを先に掴んでいた。
「――っ!」
咄嗟に跳ね起き、手を払いのける。
「………アンタ……」
距離を取ろうと相手の姿を確認して、眉を顰めた。
今、倒れこんでいた私に覆いかぶさり、ペンダントに手を伸ばしていた人物。それはそう、気を失う寸前に最後に見た、あの渦巻き仮面のトビだった。
「なんのつもり…?」
じり、と後ずさりしながら睨めつけるも、トビは黙って何も言わない。軽薄な雰囲気もどこかに行ってしまったようで、先程までの男とは到底思えない。
「……やはり邪魔だな……」
不意に発せられた声、その低く響く声が一体どこから、そして誰から発せられたのか、すぐには分からなかった。しかし今この海辺には、私と、そして目の前のトビしかいない。確かに今、その声は仮面の下から聞こえた気がしたが、明らかにあのトビとは似ても似つかない声だった。混乱した私の隙をつくように、再びトビの手袋に覆われた手がこちらへ伸びてくる。
「――っ!?」
反射的に首のペンダントを守るように動くが、トビの手が私の手のひらを上から覆うように握る。
そして次の瞬間、私はぐにゃりと、胸の奥がむかむかするような、奇妙な感覚に呑まれた。
「――っ、いったぁ……」
ドス、と砂利混じりの硬い感触に身を投げ出される。
一体なんなんだ、辺りを見回してみるけれど、真っ暗闇で全然なにも見えない。
ただ、今自分の発した声がやけに反響して聞こえたから、周りを囲まれた狭い空間なのかもしれない。
「……なんなの――ひっ」
とりあえず服の砂を払って立ち上がると、正面に突然赤い光点が現れた。
じっとりとこちらを見下ろすそれは、間違いない、さっきも見たあの眼。
なにか文句の一つでも言ってやろうという気概も削がれるような、無言の眼差し。
目を逸らせず真っ向からそれを受け止めてしまった私は、じゃり、と一歩後ずさる。
「……お前は暫く此処で大人しくしていろ……」
ドクン、急に体を巡る血が激しく脈打ち、そのままサーっと引いていくような感覚。
仮面の奥から覗く威圧感に息が詰まりそうになる。
次の瞬間、辺りの暗闇ごと渦を巻いて、その男は姿を消した。
***
それから、どれだけの時間が経ったのだろう。一分、一時間、はたまた一日か一週間か、それ以上か。時を刻むもののいないこの静寂の闇は、じわじわと私を蝕んでいく。
私はなぜこんなところにいるのか、そしてあの男は一体何者なのか。尽きない疑問もやがては闇の中に呑み込まれ、唯一確かに存在していたはずの自分さえも、黒く塗り潰されていく。
帰りたいとか、ここを出ようとか、そんな気力もとっくに使い果たしてしまった。
最初は動き回って辺りの様子を確認してもみたが、徒労に終わった。大声を張り上げたのも、喉が枯れただけだった。
ただ自分がどこかに閉じ込められたのだと、絶望的な状況を知るだけだった。
何も感じなくなってきた頭の中で唯一、あのとき爛々と暗闇に輝いていた赤い瞳だけが、こびりつくように離れない。あの冷たくもなければ熱くもない、どこか虚無を湛えたような目が、今もまだ私を監視しているかのように。
気持ちが悪い。
快も不快もなくなったはずの心の中で、ただ赤い瞳が私を睨む。それが神経を逆撫でるような感覚を生む。
“助けて”、誰に求めたのかも分からない言葉が脳裏に浮かんでは消える、あの眼がまた私を視ている、やめて、もう、
「名無子」
纏わりつく眼差しが夢か現か、それすらもう、分からない。
響いた自分以外の声も、一体なんの意味を成していたのか、認識できない。
闇の中から伸びてきた黒い筋が、私の首元にかかる。
シャラ、とペンダントが微かな音を立てた、その光景にどこか既視感を覚える。
暗闇の中で鈍く光る銀色。真っ白な鳥が翼を広げたような、そんな意匠が施されたペンダント。私の、大事な、大事なそれが、黒く染まってしまう。ペンダントと共に、いつまでも胸の奥にあるあの笑顔までもが、闇に呑まれてしまう。
「リン」
名前を呼んだ瞬間、なぜかペンダントが一際輝いた気がした。そして急激に、駆り立てるような衝動が湧き上がる。
そうだよ、私は誓ったんだ。あなたの、あなたたちの分まで生きるんだって。
こんなところにいる場合じゃないの、だから、
「――っ、ここからっ、」
胸元へ伸ばされていた黒い腕を思い切り掴み、力一杯跳ね除ける。
「出しなさいよっ!」
重い音と地面が揺れる感覚の後、痛いくらいの光が視界に差し込む。
「もう覚めたのか」
白い光の中に、切り取られたように黒い人影が立っている。
「アンタ……」
散々私を苛んだ憎らしい橙の仮面に手を伸ばすと、逆に、ヤツがこちらへ寄ってきて私の腕を掴み上げる。
「許さない…」
精一杯の気力を込めて拳を振り上げるも、頭の奥がガンガン煩く、動悸が止まらない。
そんな私を嘲笑うかのように、僅かに空気が揺れた気がした。
「許さないのは、どちらだろうな」
目の前の仮面の渦巻き模様が、大きく広がっていく。
空間が歪んでいる、そう分かったときにはまた、いつかのあの妙な感覚に全身を呑まれた。
(2015/03/22)