09:真夏のエデン
ふわり、真夏の熱気を乗せた風が、潮の匂いとともにカモメの鳴き声を運んでくる。
さらさらと白いカーテンが、窓際で揺れている。
ベッドの脇、写真立ての中の人物は、今日も穏やかに微笑んでいる。
名無子は薄い上着を羽織り麦藁帽を手に取ると、海辺のコテージを後にした。
燃え盛る夏の日差しが、海辺に燦々と降り注いでいる。
突き抜ける蒼穹にはカモメたちが舞い、真夏の噎せ返るような熱を運んでくるようだった。
「よいしょ」
コテージからいくらか離れた場所に、白いベンチがあった。
近くに置いてある小さなテーブルのその隣に、名無子は黄と橙のパラソルを立て掛ける。
自分でつくった日陰に入り早速腰かけると、ふうと一息つく。
押し寄せる波の音と、カモメの鳴き声だけが、いつまでも木霊している。
「平和だね」
穏やかで、平和な海辺。
まるで、ついこの間まで、この世に戦争があったことなど知らないような、平和な時間。
あんなことがあった後でも、世界の大半の人間は、食べて寝て、活動して、その繰り返しでまた、何事もなく生きていくのだと、名無子は考える。それは他でもない、自分自身のことでもあった。
きっともう、この平和な海辺には、悲しい報せは届かない。
名無子を苦しませる、あんな悲しみはもう、二度と。
名無子は立ち上がり、白波のたつ波打ち際に数歩足を進めた。
近くには、あのお気に入りだった流木が、そのまま残してある。
今ではすっかり砂に埋もれて、小さな生き物たちの住処になっていた。
シャラ、と名無子はペンダントを首からはずし、手にかけて眩しい日に翳してみる。
青空を背に翻る白い翼が、さながら空を飛んでいくカモメに見えた。
けれど今、このペンダントのように、片翼で飛び立とうというカモメは、どこにもいない。
あの日この海辺で死んだカモメは、もうどこにもいない。
「ねえ。今度からこの海が、アカデミーの子たちの演習場になるかもしれないんだ。臨海学校っていうのかな、里の垣根を取り払って、合同で合宿したりとか、そんな計画が立てられてるの」
波が砂を浚っていく。
あの日、彼がこの砂浜に残した足跡は、もうどこにもない。
それでも、名無子だけがひとり、立っている。あの日と同じように、立っている。
「私、生きていくよ。まだもう少し、ひとりでも」
あなたたちが守った、この世界で。母さんが愛した、この海で。
翳したペンダントが一層強く、夏の日差しを照り返した。
「オビト」
そっと口にしてみた彼の名前は、もうどこにも見つからない。
あの日彼がこの砂の上に書いた文字は、波と風に浚われ、もうどこにもない。
ただ、名無子の記憶の中だけに、いつまでも焼き付いている。
無限に寄せては返す波に抱かれ、なにもかもが海へ浚われていく。
そうして砂の一粒一粒が海へ還るように、少しずつ、少しずつ。
名無子の胸に焼き付いた悲しみさえも、いつしか夏の海へ、静かに浚われていく気がした。『真夏のエデン』完(2015/04/25)
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