October Typhoon
10月。大学の後期がはじまった。学期はじめの簡単なオリエンテーションも終わり、講義の仮登録期間がはじまる。
私は既にとりたい講義の目星をつけていて、中でも前期から期待していた講義があったから、長い夏休みの後の憂鬱な気持ちも吹き飛ばすような、軽々とした足取りで大学へ向かった。
講義室へ入ると、そこそこ学生が集まっているようだった。
残念ながら周りでこの講義をとる友達はいなかったけど、専門とはあまり関係のない分野だし仕方がない。
適当に居心地のよさそうな席を確保し、まだ大分時間に余裕があるのを確認していると、不意に名前を呼ばれた。
「名無子ちゃん?」
顔をあげると、見間違えようのない個性的な人物が立っていた。
「あ、トビくん」
「やっぱり名無子ちゃんも来てたんだ。よかったら隣いい?」
「うん、いいよ」
よいしょっと。小さく口にしながらトビくんは私の隣の席に腰かけた。
相変わらず何度見ても奇妙な、オレンジ色の渦巻き仮面が目を引くトビくん。
彼と私が出会ったのは、つい先日の、あの雨の日の図書館での出来事だった。
あの日、無事目的の本の返却も終え、すぐに家へ帰ろうとした私は、新着図書コーナーに揺れているポップに目を止めた。
そこにはちょうど私が後期に履修を決めて期待していた授業と深く関わりがあるキーワードが掲げられていて、案の定開いてみたくなるような図書がずらりと並んでいた。
じっくり吟味したいのは山々だったけど、濡れた靴を早く乾かしたい気持ちも大きかった。とりあえず適当に借りてみようか、そう思って手を伸ばしたとき、すぐ後ろから「あっ」という声があがった。
咄嗟に振り向くと、オレンジ色のぐるぐる仮面に全身黒コーディネートの、強烈な人物が立っていた。
思わず反応に困り固まっていると、「あ、ごめんね!」とその男の人は頭を下げた。
『あの、実はその本借りたかったんだけど、キミも借りるつもりだったかな?』
私が今さっき手に取ろうとした本を指差して言う。少し考えたあと、私は首を横に振った。
『いえ、ちょっと見てみようと思っただけなので…。もし借りられるなら、どうぞ』
『そっか、なんかごめんね。ありがとう』
勢いで会話を成立させてしまったが、外見の怪しさに反して、意外にも気さくな感じの人だった。
実はこの人は何度かキャンパスで見かけたことがあった。話したことなんて一度もなかったけど、教室移動のとき見かけたりしたから、漠然と同じ学部なのかなあ、と思っていた。
『後期にさ、××学科で古川先生のこれの授業あるよね』
それを裏付けるように、彼が口にしたそれは、私が目を付けていた講義そのものズバリだったので、ちょっと驚いた。
『あ、ほら、キミ、××学科でしょ?ボクも同じ学科でさ、たまに見かけたから』
パラパラと手に取った本をめくりながら、彼は言う。
『あの講義ちょっと楽しみにしてたんだ。って、何言ってんだろボク』
ハハ、と笑う彼。色々びっくりさせられたので黙ってしまったが、正直今まで周りにこの話ができる友人がいなかったから、ちょっと嬉しかったのかもしれない。
『あの、私もその講義、とるつもりです。面白そうですよね』
自分にしてはかなり思い切って会話に乗ってみたつもりだった。
結果としてそれは大成功だった。彼、もといトビくんと私は学科が同じうえに学年も同じだったことが分かったし、さっきの本をきっかけに話が盛り上がった。
それにトビくんは怖そうな外見の第一印象にそぐわず話し上手で、会ったばかりの人とここまで楽しく過ごしたのははじめてかもしれなかった。
私は自分がなにかと喋るよりも人の話を聞いている方が性に合っているタイプだから、トントンとうまく会話をリードしてくれるトビくんとは相性がよかったのかもしれない。
図書館脇の共同スペースですっかり話し終えた頃には、靴の湿りも乾いてしまっていた。
***
「んー、来週からが楽しみだね」
授業初日ということで、軽い授業内容の説明と、参考図書の紹介くらいですぐに授業は終わった。
席を立つ学生がガヤガヤとざわつく中、トビくんは軽く背伸びをしてペンケースを鞄にしまった。
私も自分の荷物を鞄にしまい、二人一緒に講義室から出る。
「トビくんはこの後講義あるの?」
「いや、ないよ。名無子ちゃんは?」
「ないよ。だからもう家に帰るつもり」
そのまま流れで途中まで一緒に帰ることになったが、トビくんが一人暮らししているというアパートが、私が一人暮らししているアパートからすぐ近くだと発覚したので、また驚いた。
「この距離ならすぐ遊びに来れそうだね!」
「遊びに来られてもなにもないよ」
笑い合って、バイバイ、と手を振った。
それから、あっという間に時が過ぎていったようで。
トビくんと同じ講義はそれこそその一つしかとっていなかったけど、人間意識するほど気がつくようになるもので、度々顔を合わせては挨拶を交わす仲になった。家が近所だけあって、買い物中のスーパーでばったりなんてこともよくあった。
「えー、名無子ちゃんまたお菓子買っちゃうの!」
「うるさいよ」
太るよ、と笑うトビくんに軽く肘鉄をお見舞いする。太るのが怖くてお菓子なんて食べられません。
余計な買い物もあったけど、会計を通し肉や野菜をマイバッグに詰める。隣にいたトビくんは、感心したようにそれを覗きこんできた。
「もしかして名無子ちゃんって、ちゃんと自炊してるんだ?」
「うん?まあ、一応ね」
トビくんは、と言おうとして彼の持っていた買い物袋を見ると、カップ麺やらインスタント食品が顔を出していた。その視線に気づいたのか、トビくんは慌てた様子で言う。
「いや、ボクも自炊できるよ?一応ね!最近は面倒であんまりしてないけど!」
「ふーん、ほんとかな?」
頭の中でトビくんが台所に立って料理している姿を想像してみて、可笑しくて思わず笑ってしまった。
***
トビくんのおかげで、ただですら楽しみだった講義は、もっと楽しくなった。
大学生活そのものもなんとなく前より充実しているような気がした。
けれど、なんてことだろう。
『台風は明日未明から明後日にかけて北上し、猛烈な…―』
ブチッ
天気予報士の人が繰り返し台風の進路を説明しているテレビを消した。
窓の外は台風の接近でびゅうびゅうと風が吹き荒れている。こんな季節にやって来るなんて、空気の読めてない台風だ。
「はあ」
明日はせっかくのトビくんと同じ講義のある日。だけどこの様子では、もしかしたら休講になってしまうかもしれない。
憂鬱な気持ちでベッドに寝転び、ふとカレンダーを見る。
そういえば、明後日は私の誕生日じゃないか。そろそろ誕生日を無邪気に喜ぶ年でもなくなってきたので、あまり意識していなかった。
それにしたって、せっかくの誕生日も台風でつぶれてしまうかもしれない。
複雑な思いのまま、私は早めに就寝した。
***
翌朝。
予報はしっかり的中して、大荒れの天気。とても外に出たくない勢いで雨が叩きつけている。
そして例の講義は、いち早く休講のお知らせが出ていた。
古川先生はまだ若い先生で、結構学生の事情に融通を効かせてくれるタイプだったから、台風にかこつけた休講を期待する学生の気持ちに応えてくれたのかもしれない。
全く、台風の方は空気が読めないのに、こっちは余計に空気が読めている。
今頃他の学生たちは大喜びかもしれないが、私は恨めしい気持ちでいっぱいだった。
結局大学自体ほぼ休校状態になり、その日は特になにをするでもなく、家に引き籠って一日を過ごした。それが午後になると大分天気も回復し、予報よりも早く台風とはおさらばできそうだった。
幸い次の日にはすっかり空は晴れて、清々しい朝を迎えた。
その日は私は午後からしか講義をとっていなかったので、ゆっくりと過ごしていると、ピンポーン、とチャイムが鳴った。
モニターを覗くと、見慣れた顔があって胸がドキリと跳ねる。急いでロックを解除し、玄関を開けた。
「おはよっ、名無子ちゃん!」
「おはよう、トビくん。どうしたの?」
一応お互いの部屋を知ってはいたけど、ちゃんと訪ねられるというのははじめてだった。
「はいこれ、誕生日おめでとう」
「え、」
ラッピングされた薄青の小包を差し出され、うろたえる。
「何驚いてんの。プレゼント要求してきたのは名無子ちゃんの方でしょ!」
確かに、そんなことを言った覚えがある。けれどほんの冗談の言い合いのつもりだったから、まさか本当に貰えるなんて思っていなかった。
「あ、ありがと……」
「どういたしまして」
可愛いピンク色のリボンで飾られたそれをまじまじと見つめる。
「色々と話したいこともあるんだけどさあ、ボク今から講義なんだ。じゃあまたね!」
風のように去って行ってしまったトビくん。
とりあえず部屋に戻りプレゼントをテーブルに置く。すぐ隣にあった時計を見ると、授業開始時刻の5分前を指していた。トビくん、間に合うのだろうか…。
それにしても私は、薄々自覚はあったけど、そろそろ認めなきゃならないなあ、と頭を抱えた。
10月の台風が過ぎ去った今日、それ以上に猛烈ななにかが、私の中に込み上げてきていた。
○ October Typhoon
(2014/12/17)