(10+1)
※ここから先は番外編として“第二部のその後のお話”になります。原作から著しく逸脱した展開となりますので、ご了承いただける方のみご覧ください。
何もない、ただただひたすら地平まで広がっている、陽だまりの中の緑の草原。時折微風が吹いては草木や頬を撫で、そのままどこかへ去っていく。
なだらかな傾斜の先に、大きな樹が一本立っていた。ざわり、少し強めに吹き付けた風にも、その樹は枝葉をしならせながら身を任せ、じっと佇んでいる。
柔らかく落ちる木漏れ日の下、ひとりの女が立っていた。
「何をしているんだ」
「絵を直しているんです、失敗しちゃったから」
そう言いながら、女は手に持ったナイフを絵にあてて動かした。ズキリ、その時不意に、痛みではないが、どこか底知れない違和感が走り抜ける。
「やめろ」
「なぜ?ほら、だってこの方が、綺麗でしょう?」
ぐり、とまた。
再び襲いかかる堪らなく不愉快な感覚、しかしそれに反して確かに、ナイフの下から現れた絵は、この上なく美しいものに見えた。ずっと以前から、大切に守ってきた、かけがえのないものに思われた。
「ごめんなさい、やっぱりこんな色、いらなかったよね」
制止するよりも早く、女は一気に手を動かし絵具を削ぎ取った。
「もう忘れて」
そう言い残し去ろうとする女の手を掴もうとした、なのに、その絵の前に釘付けになって足が動かない。
「さようなら、トビ」
何もない、どこまでも続く景色を走り去っていく、やがてその姿はあっという間に緑の中に掻き消える。
「…………」
ああ、それにしても、残された自分とこの絵、それに先程のあの不快感は一体何だったのだろう。そしてあの女は。
そう、あの女――ズキ、とまた、違和感が頭を悩ませる、そうだ、あの女は一体何なのだ、何者なのだ?分からない。
ふと絵の方に目を向けると、女が置いて行ったナイフの他に、パレットが残されていた。
パレットの上には赤、青、黄色、その他色とりどりの絵具がのせてある。その中のとある色が目に留まったその瞬間、またジクリと疼く。ああ、そうだ、ナイフに僅かに残っている絵具も、こんな色じゃないか。
パレットを手に取り絵と向かい合ってみたはいいが、いざやろうとして筆がないことに気が付いた。
だが構わない、どうせ元から絵心など持ち合わせてはいないのだ、ぬったりとしたその感触に思い切って指を突っ込む。そうして指先についた絵具を、点を打つようにして目の前の絵の上にのせていく。
限りなく透明に近い白色のそれが点々と打たれる度に、絵の上にあの花飾りが徐々に再現されていく毎に、お前の顔を思い出す。
うっすらと光沢を帯びた花を透かして垣間見る元の絵が、どうしようもなく、何か身を掻き立てるような、不可解な感情を呼び起こす。
ああ、そうだ、お前はこんな風に、いつの間にかオレの心の中に在った。
オレは恐れていた。その澄んだ色が、音が、酷くオレの中へと馴染んでしまうことに。
「……名無子……」
***
「何故だ…名無子……」
がらん、と、独りきりのアジトに空しく響く。
“さようなら”
一瞬意識が浚われた。そしてすぐ戻ってきたかと思えば、名無子の姿は消えていた。
最後に見せたあの赤い輝き、やはり写輪眼。まさか。しかし真白い中を漂うように見たあの景色、名無子は確かにオレの記憶を消そうとしたのだ。一体何故。
きらり、薄く開いていた瞼の端、何かが光る。
部屋の片隅で鈍く照明を跳ね返している硝子瓶、その中の何かがやけに目につく。
どこか気だるい体を引っ張るように動かしその瓶を手に取ると、ザリ、と中に硝子の欠片が詰められていた。粉々になりながらもどこかまだ面影を残すそれに、すぐに合点がいった。
オレがこの花飾りを買い与えてやった日、そして正体を明かした日、愛してると言いながら手酷く傷付けた日、まるで走馬灯のように駆け巡って最後、ふっと、唇に残された柔らかな感触が蘇る。
「ク…クックック……フ、ハハ、ハッハッハ……」
ああ、馬鹿馬鹿しい! 馬鹿馬鹿しい、これが笑わずにいられるか?
全くあの女は嫌にオレの感情を掻き立てる、そう、いつだってそうだった。
あんな馬鹿で哀れな女がどう足掻いたって報われない、そんな世界なのだ、この世界は。
だからあの女は無限月読という幻を求めた、そしてオレに協力した。
そうだ、オレたちのこの関係はこんな世界では報われない。こんな馬鹿なことがあるか。あってたまるか。
「名無子……」
アイツが何故オレの記憶を消そうとしたのか、そんなことが分からずとも一つはっきりしている。
これから為すべきこと。それはオレの、そして名無子の悲願である“月の眼計画”の成就、ただ一つ、ただそれだけだ。(2015/01/18)