静かの海に




ふわり、ふうわり。徐々に身体が浮いていって、二人は、群青色の夜空に溶け込む。オビトに抱えられた名無子が、ゆらゆら、足を遊ばせると、皓い月光が踊るように揺らめいて、さながら海の淵を泳いでいるようだった。

「ねえ、オビトさん」
「ん?」
「前はさ、こんなふうに優しく、抱き締めてくれたことはなかったよね」
「……名無子、それは――」
「あはは、そんな顔しないで……冗談です」

それでもなお「すまない、」と言いかけたオビトを、名無子は笑顔で遮った。

「いいんです。私、それでもよかった。それでよかったんです、あなたが居てくれれば」

背中に回されていたオビトの腕を、名無子はきゅっと握り返す。

「あなたが本当の意味で、私を見てくれなくても。それでも私は、あなたが好きだった」

――ねえ、憶えてますか。名無子は無邪気に問いかける。

「はじめて会った日のこと」
「……ああ、そうだな。オレが雨隠れへ行ったときだった」
「そう。懐かしいなぁ、あはは」

あの頃は、と名無子が続ける。

「まだ“トビ”っていってさ、変なキャラしてて」
「…………」
「なんだかね、どうしてかわからないけど、あなたのこと、雨の似合わない人だなぁって、なんとなく思ったの」

それから、他愛ない思い出話をぽつぽつと語り合う。

「私はずっと、雨隠れでペインと――神様と、天使様と、里のために生きていくんだって思ってた。まさかあなたと、こんなことになるなんて、思ってもみなかった。不思議だね」

遠く遠く、目を細めた名無子の横顔を、オビトは黙って見つめる。

「後悔はしてないの。私は、こうして……あなたと一緒にいられたら、それ以外なにもいらないって、思ってた。これまでの世界の、過去も、未来も、なにもかも……思い出さえも」

そこではじめて、名無子は言い淀む。

「ねえ、オビトさん。だから私、こわかったの。すべて、思い出してしまうことが」

だってね、と息を吸い込んだとき、僅かに見開かれたその瞳が潤んだ。

「――だって、この世界は、」

私の夢、そのものだから。


その言葉を、オビトは、肯定も否定せず受け止める。

「この世界がただの、私の夢なんじゃないかって。気付いてしまうのが怖かった」

言い切って、声が震える。目を伏せた名無子の頬を、オビトは触れるか触れないか、そっとなぞった。

「名無子」
「……、……」
「名無子、オレは」

オビトは一旦、ふう、と息を吐いて、張り詰めた空気をほぐすように、少し明るい調子で口を開く。

「なあ、憶えているか? オレたちが最後に会った日のことを」
「……」
「オレはこの、輪廻眼を手にして。戦場へ向かった。お前を置いていった」

「あの頃は」とまるで、先ほどの名無子の言葉をなぞるように、オビトはゆっくりと話す。

「オレは確かに、この、無限月読の世界が欲しいと、心から思っていた。そしてお前も、お前の望む夢を見るのだろうと。オレもお前も、それぞれの夢の世界で――大切な人たちと永遠に、共に居られる。それでいいと思っていた」

ひどく穏やかなオビトの眼差しを、今度は名無子が見つめ返す。ただですら白いオビトの頬が、月光に包まれいっそう、淡く輝いて見えた。

「だがな、現に今、この世界はどうだ。人々は繭となって、眠りに就いた。オレはただ、一人になった。誰も居ない、静かなこの世界で……オレはたったひとり、何百、何千と時が過ぎるのを見送った」

「…………」

「オレは……途方もなく広いこの世界で、ひとりになった。誰も傍に居ない……ただただ、生きている。いいや、ただ“死んでいない”だけだ。手にしたこの六道の力のせいで、自ら死ぬこともできない……まるで“生きながら死んでいる”ような」

オビトは沈黙が落ちるのを嫌うように、矢継ぎ早に告げる。

「気を紛らわせるために、そこらを飛び回ってみたり、仙人の真似事で雨を降らせて川や湖を造ってみたり、色々やったさ」

そんなときさ、と言われ名無子ははっとする。

「名無子、お前がオレの前に現れたのは」

「……、」

「最初は信じられなかった。だが確かに、お前は、ここに居た」

「……、オビトさん……」

「オレは……、オレは、お前と触れ合ううちに、やがて怖くなった」

“怖かった”と。それはまた、名無子が口にしたのと同じように。

「お前が……お前がいつか、記憶を取り戻したら。オレを軽蔑するんじゃないかと。そしてまた、消えてしまうのではないかと」


いつしか二人は、同じ恐怖を抱えていた。互いを思うからこそ。今の微睡みから醒めてしまうのを、恐れていた。

……けれど。


「……ねえ、オビトさん」

もう何も言わずともわかるとばかりに、オビトは名無子の顔を覗き込み、頷いた。それが名無子にとって嬉しくもあり、ひどく寂しくもあった。

「かえらなきゃ」


いつの間にか二人は、あの、広い広い湖の上を飛んでいた。

「……どうしてかな。ずっと、ずっとこのまま居られたらいいのに」

果てしなく透き通ったゆららかな湖面には、満ちた月が、円い月が映っている。

「何かが呼んでいるの。この前、ここに来たときから、ずっと。誰かが呼んでいるの」

名無子の語る言葉をじっと受け止めるオビトは、まるですべてを知っているようだった。


湖を越えて、丘を越えて、再び、あのたくさんの繭を目にしたとき、名無子はなにか、背中がぞわぞわするのを感じていた。

「オビトさん」

痛いくらいに手を握り締めた名無子は、もはや自分が進みたいのか、戻りたいのかわからなかった。けれどそうこうしているうちにも、オビトは風を切って、やがて二人は大きな木の下に辿り着く。

身体をそっと降ろされたとき、名無子は「ここか」と、突き付けられるように、理解してしまった。

「名無子」

オビトは迷うことなく進んでいく。名無子は心のどこかで拒絶するのに、身体が勝手に前へと踏み出す。

おびただしい数の繭の中、絡み合う木の根を分け入ると、大樹のもとに抱かれるように、ひとつの繭が横たわっていた。

オビトが繭へそっと手を伸ばす。慈しむように「名無子」と呼びかける。その瞬間、名無子の瞳からどっと涙が溢れた。

「……泣かないでくれ、名無子」
「オビトさん、オビトさん……」

何度も何度も、赤子をあやすように、オビトの手が名無子の背中を撫でる。

「名無子」
「……」
「……なあ、わかるか?」

オビトはそっと名無子を胸に抱きとめ、囁きかける。

「オレの、オレたちの、この世界は、永遠に時が止まったままだ」
「……、」
「なにもない、平穏な時間……それが永遠に続く」

「それでいいと思っていた」、オビトは再びそう口にする。

「けれど今は違う。今は……もう一度、オレたちの止まった時を、動かさなきゃいけない」

わかるな、と、今度は名無子にはっきりと問いかける。

「お前の時間は、もう、お前だけの時間じゃない」
「……っ、」
「だから名無子……」
「……オビトさん」
「……」

ゆっくり、ゆっくりと。二人の身体が離れていく。

オビトが腕を前に差し出すと、どこからともなく黒い球体が現れた。捩れあったそれは、小さな“ぬのぼこの剣”になる。

「オビトさん……」
「名無子……オレは、」


この世界を、終わらせる。


“剣”を掲げたオビトは、迷うことなくそれを、正面へ、あの繭へと振り下ろす。
わっと風を薙いで一拍ほど、まるで糸が解けるように、ふわっとゆるやかに繭が半分ほど崩れ落ちる。

「ああ、私って、こんな顔していたのかな」。繭の中で穏やかに眠っていたのは、名無子自身だった。


名無子が近づき、己の身体に触れようとすると、そのまま、どんどんと吸い寄せられる。引き込まれるように、意識ごと渦を巻いて持って行かれる。

「オビトさん!」

抗おうと必死に藻掻いて、最後、振り返ると、いつの間にかまた、空に浮かんだオビトが、剣を掲げたところだった。

「オビトさん――!」

長く長く、伸びた剣をオビトが一閃させる。そこら中の繭という繭が引きちぎられ、破れ、崩れていく。

はらはらと舞い散る白い糸が、風に乗って、視界を埋め尽くす。

「名無子……」


お前が傍にいてくれて、よかった。


遠く、遠く、満月を背負ったオビトが、月明に滲んで消えていく。その顔を目に焼き付けたいのに、景色も、思考も、なにもかもが波に浚われ、消えていく。


ありがとう



――わからない。

名無子には、わからない。

どうして、そんなふうに。

零れそうなほど、最後に、笑ってくれたのか。


未だに、わからない。


2018/12/19


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